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■ 「現象学的な心」合評会、無事終了!

「現象学的な心」合評会、無事終了した! 来てくれた皆さんどうもありがとうございました。飲み会などでの反響を見たかんじからすると、けっこう楽しんでもらえたのではないかと思う。心配だったのは哲学者向けの話にできていたかどうか(理系向けに専門的になりすぎてなかったか)だったのだけど、石原先生にはよく分かったと言ってもらえた。

こんなにたくさん「ヘテロ現象学」とか「神経現象学」とか言ったのは人生初めてだ。しゃべり声がまだ頭の中を反芻している。

会の途中では、現象学自体の課題としてはなかなか行き詰まってるんではないかみたない、重苦しい話も続いた。演者の一人の植村さん@uemurag のように「フッサールがこう言った」ではなくて現象学発生時に戻って考える人がおられるというのを知ったのも収穫だった。(とはいえ、あくまで哲学的問題からのことであって、自然化の問題のためではないようだ)

原さんが採りあげておられたownership-agencyの問題が現象学的アプローチの成果として利用できそうであること、石原先生から説明のあったギャラガーの仕事の背景などもとても役に立った。このへんの一つのテストケースとして考えていくというのがよさそうだ。

今回のトークをきっかけにまたいろいろと話も広がっていきそうなかんじ。俺たちの戦いはまだこれからだ!(<-今後の吉田正俊先生の活動にご期待ください。)

今回のトーク、そして池上さんのところの講義を通して分かってきたのは、けっきょくのところ、わたしが問題としていたような「一人称的な意識の神経科学を進めるのにはなにが必要か」という問いの答えとなりそうなのは「神経相関を越える方法論」を作るということであるようだ。まあある意味堂々巡りではあるのだが、この目標のためには、神経現象学を正しく実践する、つまり現象学と力学系を正しく使うということが必要になるようだ。

力学系を通して現象学的な二元論の克服を目指すという研究プログラムについてもっと考えてみようと思った。今日の議論の途中ではなぜか、私がヴァレラの神経現象学を擁護するみたいな展開になったけど、じつのところVarela 1996, 1999, Lutz et al 2002まで読んで、わたしも正直この先を考えてみようというつもりはなかった。ずっとLutzの仕事は現象学を徹底できてないんではないかと思っていたのだが、今日の議論で実際その通りであることが分かって大きな収穫だった。

それと同時に、「内観主義的に意識状態Aと意識状態Bを比べる」というのが半分は神経相関の問題であり、「意識状態Aと意識状態Bの構造を分析する」といったやり方でヘテロ現象学ではない分析をすること、「状態AとBでの脳内ダイナミクスを解明する」ということを組み合わせれば神経現象学を実践することは出来るのではないか、という考えに辿りつくことが出来た。これも大きな収穫だった。

思えば1990年代後半に「オートポイエーシス」を読んで超ハマリ、超精読してたころから、いつかこれが自分がやっている実験的な仕事とconvergeする日が来ないものかと考えてきた。今日はその野望が一歩進んだ日だと言えるだろう。とはいえなんの成果もあるわけでもない。その野望を実現するためには清水博先生の道を手本にしようと心に誓ったものだったのだが、未だに実現できてない。さっさとたくさん仕事をして、次のステップに進むしかない。俺たちの(ry


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