「スープカレー、MyGO語り、ライラック」(さうして、このごろ2024年5月後半)

(2024/5/10) 札幌にはスープカレー屋がたくさんある。スープカレーの入っている野菜の素揚げが好きなのだが、採算取るためか、どこもスープに対する具の比率が低い。


だったら自分で作るか、ということで野菜の素揚げを大量に作って、スープカレーの素(2人前)で煮込んでみたら、だいぶ満足できるものができた。タッパーに詰めて、大学でレンチンして食べたら多幸感が高まった。

そんなわけで、これ見て、そういうものだよな!って思った。togetter:「自炊はそれでもと言い続けるんだ」

コスパとかタイパとかじゃあ、ないんだ。

(2024/5/13) このあいだ、具だくさんすぎるスープカレーを自作したけど、同じような話題がtogetterでまとめられてた。togetter: 「自炊は節約のための道具じゃねぇ!」コスパ度外視、見栄え無視の最強自炊飯

「麺とあさりの比率が同じボンゴレビアンコ」「アルティメット栗ご飯」このあたりの気持ちはよくわかる。お店ではぜったい出してくれないようなアンバランスなやつは、自作するしか無いんだよな。

Togetterの後半はクソデカ料理で写真映えを競うみたいになってきてるけど、そのへんはnot for me。(「レディーボーデンをイッキ」みたいな喜びはわかるが。)


It's MyGO語りの続き。(これまでのブログ記事1ブログ記事2ブログ記事3)

"It's MyGO!!!!!"アニメの批評

「燈に作詞とボーカルの才能があるとはされている(…)彼女の才能に惚れ込んだメンバーが集っているわけではない」「個人的な好みをいえば、音楽に関わる人と人の関係を繋ぐものは、あくまで音楽であってほしい気持ちはある」

なるほど、自分はむしろ"It's MyGO!!!!!"が燈の才能のもとに全員が集結する形になってない点に惹かれたのかも。もしそうなっていれば普通のバンドアニメなので、話の焦点はバンド対世間の関係(サクセスストーリー)に向かってしまう。そういうのじゃないんだよな(今のところ)。

この物語が目標として設定しているのは燈の言葉「一生、バンドしてくれる?」だ。でも最終回まで来ても、だれもそれに100%答えることはできてない。愛音の「毎日を積み重ねていったらそれは一生になるかも」(正確な表現は忘れたが)がいちばん真正面から受け止めた言葉だったはず。だからこのストーリーはまだ閉じてないし、続編(Ave Mujica)の中でサイドストーリーとして続くはず。

ストーリーの展開上、どっかでバンドが内向きでなく外を向いたサクセスストーリーが必要になると思う。でもそのとき燈の「一生、バンドしてくれる?」は、それを継承するような形で目標が上書きされる必要があると思う。

書いてて思い出したけど、「わたなれ」の展開にちょっと期待している。(自分はコミック派。ラノベは未読。) れな子は恋人という不安定な関係ではなくて、友達という持続的な関係を求めている。それが百合ハーレムを作る口実としていまのところ機能している。早晩その百合ハーレムが壊れて決着をつける展開が来ると思うけど、もしそこで「持続的な関係を作ること」の意味に直面したならば、なんかすげーものを見ることができるんではないかと期待している。(5%くらいの期待度。)

「俺ガイル」は自虐的なダークヒーローの物語だったのが、「本物がほしい」と言ったことで安直な着地点では畳めなくなった。あういうのを期待してる。


ジャック・ドーシーの言う「モデレーションで人々を排除し」ないSNSってどういうものなんだろう。

昔の2ちゃんねるみたいな、荒らしだけが生き残る世界は勘弁してほしい。管理者によるモデレーションではなくて参加者による相互モデレーション(スラッシュドット方式、もしくはあにこ便方式)を採用するという意味なら理解できるんだけど。

「地獄に天使のたとえもあるぞ さよならだけが人生だ」と書いてから、ヘルズ・エンジェルスの語源を調べてみたら、映画の題名と知った。


今日のウォーキング。跨道橋を渡りたくて行ってみたら無い。そういえば撤去されたんだった。石山通に向かったら、いちめん花の香がする。紫色で円錐形の花だが、日没したのでなんの花かわからない。

あとで調べてみたらライラックだった。時期的にも合ってる。Googleストリートビューで過去の5月のものを探したら見つかった。あとこちらも: ライラック祭り

思わずdipの"lilac accordion"とか聴いてた。あの曲のサビの「boy likes girl」「accordion lilac」の比率が1番、2番、3番でだんだん変わるところ、理屈でなくなんか痺れる。説明のしようがないけど。

ついでに思い出したけど、Matthew Sweetの"I've Been Waiting"でサビが1番、2番、3番でだんだん長くなってくの、あれも好き。


「10年前のWebページの38%が消失」

まあそうなるよな。自分のブログは2004年から20年続けている。その前にやってたはてなダイアリー、niftyのホームページを含めて、1999年からの記事を蓄積しているが、記事の中のリンクはかなりの部分繋がらなくなってる。


これはたまに見たくなる。トラックの天井が削れてゆくさまを淡々映されるのを見ていると、心のどこかがほぐれてゆく感じがする。


「Apple Musicによる「史上最高のアルバム100枚」」

これ見て、自分がちゃんと聴いたことのあるアルバム(ストリーミングで流し聴きしただけのものは含めない)をピックアップしてみたら、全部で23枚だった: 3, 9, 12, 14, 17, 20, 21, 24, 25, 27, 28, 33, 34, 49, 53, 54, 58, 60, 63, 66, 67, 81, 87

だいたいが60-70年代で、いちばん最近のがKid A (2000)。自分が「ビートルズおじさん」だということを認めざるを得ない。


「承認欲求モンスターが下北に」ってニュースのタイトルを見て、素で「下北半島?」と思って本文を見たら下北沢だった。そりゃあそうかと思いつつも、そうか、自分の心はもう東京にはないのだなと実感した。(28歳まで東京在住)

とここまで書いて思ったけど、下北沢だったらカタカナで「シモキタ」って書かん?(往生際が悪い)


イースタンユース at ペニーレーン24行ってきた! (20251003)

(20251003) 10/3(金)のイースタン・ユース at ペニーレーン24行ってきた。よかった! イースタン・ユースは2024年3月の極東最前線以来2度目。(前回のレポのブログ記事)

開場15分前くらいに行って並んだ。自分の整理番号は171だった。並んでいるときに310番台くらいまでは声がかかっていた。当日券があったから、売り切れなかった模様。(でもライブ始まる前に後ろを見たら、最後列までほぼ満員だった)


~18:35に会場に入って、前5列目くらいを確保。

~19:06にスタート。「夜明けの歌」でスタート。一挙に胸が震えて持ってかれた。感情落ち気味だったので、ちゃんと反応できてる自分に安堵。

曲順は以前の福岡のセトリと(たぶん)同じ。

今回*は音がデカくて、正直この歳にはしんどかった。次の日一日中耳がキーンとしてた。まあ今回のツアーは「全国巡業 〜爆音列島2025〜」と謳っているのだし 爆音でなにも間違っていないのだが。耳栓を持ってきておくべきだったか。

(* 前回(極東最前線2024年3月)と比べても、爆音だった)

吉野氏のMCは僻みっぽい発言が多かったが、これはまあ前回もそうだった気がする。

あと、吉野氏もぼやいていたが、どうにも観客の反応が悪い。前の方で体揺らさずに直立不動している観客がいる。そういう音楽じゃないだろう?あと、誰もシンガロングしないし、(MC中に反応する)うざい観客(いい意味で)がいない。この辺りについては、イースタンではそういうものなのかもしれないし、コロナ禍でライブの文化が切れたせいかもしれない。

周りにうざがられてもいいからシンガロングするぞと意を決して、自分が歌詞を把握している曲 (「夏の日の午後」「砂塵の彼方へ」「雨曝しなら濡れるがいいさ」など)ではサビで叫ぶところだけ*シンガロングした。だって、「それが全ての景色を燃やしちまうだろ」とか、歌うしかないだろ?(ライブ後半はけっこうシンガロングしている客が多かった)

(* いちおう常識的な範囲で)

アンコール2回で終了したのが~21:10。トータル2時間くらいの演奏だった。全曲体を振っていたら、はじめの1時間でもう足がガクガクになった。正直1時間くらいが自分的には精一杯。

終了後にステージを撮影。吉野氏はYAMAHA SG-1000を2本を取り替えて使ってた。(チューニングがズレたタイミングで交換?)

客層は男女比5:1くらいか。年齢層は自分よりも若い人(30-40代くらい)がメイン層っぽかったが、自分と同年代かそれ以上の白髪の人とかもいた。(ちなみに自分は吉野氏とは同い年)

そういうわけで、観客として2時間全力投球してたいへん満足できたのだが、自分の体力的に限界も感じた。全曲知ってる曲だったが、歌詞を覚えている曲が少なかったのは忠誠度が低かったと言わざるを得ない。(ライブごとに予習して思い出す、みたいな参加の仕方だから。)


そういうわけで、つぎのライブ(オウガ)に向けて予習を始めるのだった。


toeライブ at ペニーレーン24行ってきた! (20250501)

(20250501) toeライブ at ペニーレーン24行ってきた。よかった!

今回のライブは、

  • センターステージだから収容人数が少ない
  • わたしがチケットを買った直後にソウルドアウトした

この2つの条件から、早めに行ったほうが良いと判断して、18:30の会場オープンに合わせて到着。18:50あたりに入場できた。

自分の整理番号は359でほとんど最後尾。370-380くらいまでで最後だったはず。ということは、no showの人数を考慮すると、観客の人数はたぶん300人ちょっとくらい。

センターステージ方式なので、間近で演奏してくれるのが最高。私は入って右側で前から3列目。

写真にあるように、ど真ん中に演奏の場所を作ってあって、上げ底とかないので同じ高さで演奏している。路上ライブ的。私のいる場所は入って右側で、写真の右側に見切れた部分には座って観ることができる席もあった。

19:30開演の予定が10分遅れでスタートして、アンコール込みで終了が21:25(2時間弱)。

セトリは前半は福岡のときとほぼ同じ。福岡のときのセトリでYoutube Musicの再生リストを作ってある。

「LONELINESS WILL SHINE」でスタート。ボーカル曲はライブで聴くと力強かった。

「風と記憶」もライブだとドラムとベースがドライブさせてくれるので、めちゃ体を揺すった。

ニューアルバムの曲が中心だったが、なんかの曲のときにイントロで客が湧いてた。あれは以前のアルバムの曲のはず。(「エソテリック」をやったのは覚えているので、たぶんそれ。)

後半から児玉奈央氏と徳澤青弦氏が参加して「WHO KNOWS ?」を歌ってた。このあたりは福岡のときとは違う。たぶんセトリ的には「サニーボーイ・ラプソディ」の前に「WHO KNOWS ?」が加わった以外は福岡とほぼ同じ?撮影した写真にはセトリを書いた紙が写っていたが、小さすぎて解読できない。

ライブの後半では客演の児玉奈央(ボーカル)と徳澤青弦(チェロ)が加わった。アンコールの2曲目で二人とも再登場して、「グッドバイ」に参加。これがすごくよかった。

写真、録画は禁止のアナウンスが出てたけど、アンコールで山嵜氏から、いまから写真だけならOKなのでSNSで宣伝してほしい、というアナウンスがあったので撮ったのがこの写真。


ポストロックの曲って終わりが唐突で拍手しにくいことがあるが、今回はなんか親切設計だった。

そんなかんじでたいへん満足したのだけど、会場を出ると21:30過ぎ。今回はまだ肌寒い季節だったので自転車で来るのは避けておいた。このまま帰るのも名残惜しいので博多ラーメンを食ってJR琴似駅に到着したら、次の札幌行きは20分後。JRってそういうもんだったわ。

そういうわけで、自転車で来るのは意外と理にかなってることが判明。桑園のイーオンに寄って、半額弁当を買って帰るというのがいつものパターンなのだけど、案外ベストアンサーだったみたい。


第1回CHAINシンポジウムで講演しました(スライドあり)

第1回CHAINシンポジウムで講演をしました。

CHAINシンポジウムはCHAIN教育プログラム履修生を中心とし、CHAINに関わる方々の相互交流、CHAINの活動を知っていただくことを目的として、今回第1回が2025年9月9日に開催されました。

第1回は、本センターからの講演者としてわたくし吉田正俊が登壇し、ゲスト講演者として沖縄科学技術大学院大学(OIST)から本センターの連携研究員でもある谷淳さんにも講演していただきました。2人の講演の後ではパネルディスカッションも行われました。

これらの講演と議論を録画したものが、CHAIN youtubeチャンネルで公開されています。

スライドについてはこのブログで公開しておきます。

「行為する意識」 (2025年9月9日開催 CHAINシンポジウム講演のスライド)

当日使ったものから、著作権を考慮すべき部分について削除または差し替えを行っております。ダウンロード可能。書籍で使用している図については、CC BY4.0ライセンスを採用しています。


内容について少々語ると、このスライドは、2025年5月に出版された著書「行為する意識: エナクティヴィズム入門」(吉田正俊+田口茂)に沿った内容となっています。意識に関する研究の流れを追いながらそこにある問題を指摘し、それを克服するための方策として、予測的処理、エナクティヴィズム、神経現象学について説明します。そのうえで、「脳の過程と意識の過程の絡み合い」という考えを提案して、著者なりの神経現象学を提案しています。

著書「行為する意識: エナクティヴィズム入門」を買う前に内容を知りたいという人にとっては、あらかじめこのスライド(と講演動画)を見てもらうとよいと思います。

また、著書「行為する意識: エナクティヴィズム入門」を読んだ方にとっては、そのさきについてどう考えているかもこのスライド(と講演動画)で語っています(p.90-95)。ざっくりと言うならば、エナクティヴィズムを提唱したフランシスコ・ヴァレラは、それを当時の知覚、認知、進化の研究が持っていた、認知主義的、表象主義的な態度を批判したうえで、それに対するカウンターとして、エナクティヴィズムという考えを導入していたわけです。

私自身も「行為する意識: エナクティヴィズム入門」においては大枠はそのような流れで書いてあるのだけど、どうもしっくり行かない感じがする。

つまり、エナクティヴィズムは古典的な表象主義(「意識の神経相関」のようなアプローチ)については批判する。無意識的推論(ベイズ脳仮説)も見た目は違うけど表象主義を採用している。だからといって、それを間違っていると主張し、それに取って代わるものとしてエナクティヴィズムを置くことは、エナクティヴィズムですべての現象を説明しなければならないという立証責任が生まれる。じっさいにはそれに成功してない。そして、そんな必要はないのではと思う。

それで出版後にたどり着いた比喩が、「エナクティヴィズムと無意識的推論(ベイズ脳仮説)の関係は、非平衡系の物理と平衡系の物理のような関係ではないか」というものです。

逆さ眼鏡のような介入や、発達期の視覚のようなダイナミックな過程を説明するところにこそ、エナクティヴィズムの強みがある。しかし、いったん感覚運動カップリングが安定して繰り返し再現される、習慣された状況(=平衡系)では、確率的に事象を扱うことができるので、無意識的推論(ベイズ脳仮説)が役に立つ。

では、エナクティヴィズムは無用なのかというと、そんなことはない。われわれの認知と生命はつねに揺らでいる(=非平衡系)。意識の理解において、この揺らぎは無視できない。だからこそエナクティヴィズムは不可欠。

そしてじつのところ、エナクティブな視点はあらゆる事象に関わってくる。しかしそれは、習慣化されていない状態に立ち返る必要があるときだ。

そのための説明として、「蝶と蛾の世界」*の話をした。 (* これは自由エネルギー原理の説明をするときにいつも使うネタなので、知らない人は著書「行為する意識: エナクティヴィズム入門」もしくは吉田のFEP入門のスライドを見てほしい)

世界に蝶と蛾しかいないときは、観測値(網膜の活動パターン)と隠れ状態(蝶または蛾)との間に繰り返し再現される統計的パターンがあり、それをわれわれは「生成モデル」という同時確率分布として持つとするのがベイズ脳仮説、予測誤差最小化の前提だ。

しかしそこにバッタが現れたとしたらどうなるか。このとき蝶または蛾のみを集合として持っていた隠れ状態の空間が壊れてしまう。このとき、ベイズ脳仮説、予測誤差最小化の確率的枠組みはいったん無効になる。そこで起きていることを知るためには、その確率的推論が埋め込まれている神経ネットワークのレベルに立ち返る必要がある。

そこではまずバッタが現れたときに、誤分類を起こして、蝶または蛾であると推論することになるだろう。しかしそれが繰り返されてゆくとき、どこかでバッタに固有の意味が付与されたとき(たとえば、蝶も蛾も美味しいが、蝗はもっと美味しいことが判明したとか)、[蝶、蛾、バッタ}を集合として持つ隠れ状態の空間の作り直しをしていることになる。

この例も感覚運動カップリングが安定して繰り返し再現される、習慣された状況が壊れたときのことを想定しているけれども、それは「意識」とかややこしいものを持ち出さなくても、学習というダイナミックな過程で起きていることだ。

(計算理論の中で破綻なく話をすることは可能だ。あらかじめ隠れ状態の空間として、蝶と蛾と、それ以外の可能性もあるけどそれらはすべて生起確率をゼロとしておけばよい。でもそのような処置をあらかじめ用意することはできない。「バッタが現れる」という想定外のことが起きてから、後付けでそのように説明することができるということに過ぎない。)

「行為する意識: エナクティヴィズム入門」では、このような、実際にやってみないとわからないものを、行為的媒介と呼び、可能化条件として非自明な制約が過程と過程をつなぐものとして、生命や意識の構造について議論したのだった。

話が長くなったので、いったんここで切っておきたい。CHAINシンポジウムでは、質疑応答の中でも有意義な質問が数多くあった。そのあたりは録画の方を見てほしい。


札幌から小樽まで自転車で往復してきた (2024/5/18)

(2024/5/18) 札幌から小樽まで自転車で往復してきた。往路のGPSウォッチでの記録。35.79 km in 1:57:37 (18.3 kph)。帰りはGPSウォッチが電源切れで計測できず。

手稲区を通りがかったところで「星置通」を見つけた。なんだか学園モノのラブコメが始まりそうな地名だ。星置学園の二人は天文部で云々…とか考えて後で調べてみたら、星置の名はアイヌ語由来らしい。「崖の・その下」を表す「ペㇱポキ」に由来する(諸説あり)とのこと。

ソースは「アイヌ語地名リスト」の119ページ

てっきり新興住宅街に「富士見台」って名付ける昭和的センスだと誤解していた。星置は発寒とともに、札幌で始めて和人が入植した場所(江戸末期)で、当時から「ホシホキ」だそうな。ソース: 「星野・ほしみ・星置の地名の由来」

往路の途中、いまほしみでPascoloのジェラート。牛乳、梅、ブドウ。

JR銭函駅から朝里駅までは海沿いを行く線路で駅間距離が11kmあるのだけど、並走する道路がない。山の中を走る国道5号線(日本海オロロンライン)を行く必要がある。高台から海を見下ろせるのでいいかんじ。ジョギングしている人を5人くらい追い越した。けっこう過酷だと思うんだけど。

オロロンラインは自転車レーンがないので、車道を走ると時速100kmで爆走している車に抜かれたりして、命の危険を感じる。

けっきょく、ほしみから小樽築港までの14km (最高高度150m)に45分くらいかかった。


鱗友朝市で小樽丼。ここは観光ルートから外れているので穴場。12時前に到着したら、並ばずに座れた。


んですぐ隣にある小樽市総合博物館 本館へ。ここが今日の目的地。手宮駅の跡地に鉄道が保管展示されている。ここはすばらしい。

小樽の観光地っぽいところも寄ったけど、すげー混んでた。街の様子だけ見て退散。往路で力尽きたので、復路はゆっくり帰った。

峠道を下って銭函駅まで来た。ここからは平坦なので、ゆっくり帰る。

往復してみての感想:今回サイクルグローブを初めて使ってみたけど、手の衝撃が抑えられて有効だった。指出しグローブって古のオタクのステロタイプで恥ずかしいと思ってたけど、グローブ重要。

一日で合計70km, 4hrは自分にとっては限界だった。ロードではなく小径車だからというのもあるけど。

いつかは札幌-旭川(150km)を自転車でと考えていたけど、輪行して滝川-旭川(60km)くらいのほうがよいかも。


お勧めエントリ

  • 細胞外電極はなにを見ているか(1) 20080727 (2) リニューアル版 20081107
  • 総説 長期記憶の脳内メカニズム 20100909
  • 駒場講義2013 「意識の科学的研究 - 盲視を起点に」20130626
  • 駒場講義2012レジメ 意識と注意の脳内メカニズム(1) 注意 20121010 (2) 意識 20121011
  • 視覚、注意、言語で3*2の背側、腹側経路説 20140119
  • 脳科学辞典の項目書いた 「盲視」 20130407
  • 脳科学辞典の項目書いた 「気づき」 20130228
  • 脳科学辞典の項目書いた 「サリエンシー」 20121224
  • 脳科学辞典の項目書いた 「マイクロサッケード」 20121227
  • 盲視でおこる「なにかあるかんじ」 20110126
  • DKL色空間についてまとめ 20090113
  • 科学基礎論学会 秋の研究例会 ワークショップ「意識の神経科学と神経現象学」レジメ 20131102
  • ギャラガー&ザハヴィ『現象学的な心』合評会レジメ 20130628
  • Marrのrepresentationとprocessをベイトソン流に解釈する (1) 20100317 (2) 20100317
  • 半側空間無視と同名半盲とは区別できるか?(1) 20080220 (2) 半側空間無視の原因部位は? 20080221
  • MarrのVisionの最初と最後だけを読む 20071213

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