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■ 二元論/オートポイエーシス/Enaction
ついったでのやりとり。2012/4/14
なにか大事故や不祥事が起こるとそれの反動で厳罰主義になる。これは役人や政治家だけでなくて、世論自体もそうだ。科研費運用から原発、津波から祇園の事件まで。科学者としてはもっと合理的に行こうぜと思うのだけれども、ここにも「お話」と「演算」とのウロボロス的構造があるのだろう。
世界は二元論なのだけれども、間違っていない二元論というものは、その二つの要素が独立せずに、互いに影響を与え、互いを要請するような構造になっている。
alltbl @pooneil 独立してなくて、からまったものなのに、なぜ一元論ではなくて二元論?
@alltbl けっきょく言葉の問題ではありますが、からまったものとして統一的に理解できる(メタな視点からの統合が可能)ならば一元論だけど、絡まっていることだけが分かっていて、それぞれを整合的に説明する枠組みが共約不可能なのが二元論、ということでどうでしょうか?
alltbl @pooneil 同意します。ただ起源を問うときにも、二元論のままですか?
池上さんは一元論でやっているであろうとは思います。
オートポイエーシスでいう「カップリング」の概念というのは「絡まっていることだけが分かっていて、それぞれを整合的に説明する枠組みが共約不可能」という状況を独特の表現をしたものではないかと思ったりする。つまり、オートポイエーシスは機械論を目指しているけれども、徹底できていない。
@alltbl ちょうど今カップリングの概念に触れたところでしたが、なるほど、カップリングの生成ってどうしたらいいのか分からなくなりました。それは卵でも鶏でもないものから卵と鶏への分化であって、片方から創発するってんではないのでは?というのが私のヒューリスティックです。
alltbl @pooneil はい。では、もとはひとつなのに、途中から変わるのは、「こちら側の記述」の問題でもある訳ですね?
カップリング自体は静的な概念、というか観察者側からのものの言い方でしかないのだろうし。
池上さんのコメントに込められたメッセージは、世界の二元論的構造というものは静的に捕らえたがゆえのことであって、生成論的に考えればその絡まりを解くことが手がかりを見つけられるかも、てことかなって思った。
@alltbl もし生成の際に変わるのが「こちら側の記述」だけだったら、オートポイエーシスの動作側からは何も変わらず、一元論は保持されることになります。でも動作側と観察者側の二元論が先に導入されているので、動作側がどうやって観察者の視点を獲得するかを考える必要があるかと。
ksk_S @pooneil @alltbl 横から失礼します。ヴァレラは動作はそれ自体が観察者で もあると考えてたようですが、「卵でも鶏でもないもの」は動作として記述されませんかね。カップリングは本質的だ思うんですが、観察側も動作として説明しないといけないと思います。
@ksk_S ありがとうございます。「動作はそれ自体が観察者でもある」ここがわからないです。池上さんの前のお仕事で外界の情報を分節化するモデルがありましたが、たとえばあれは観察者を動作として記述したことになるのか、もしくは表象を作ったことになるのか私にはまだ判然としてないです。
ksk_S @pooneil Embodiement、Enactionを突き詰めると、表象と一人称的体験は同じものを表と裏と考えるのだと思います。そうすると、温度計にも主観はあるのか問題になってしまうのですが。ただ言えるのは、特権的立場のホムンクルスを仮定しないという了解はあると思います。
alltbl @ksk_S @pooneil 卵でも鶏でもないもの。混沌とかchaos?
補足として、わたしの理解は河本英夫氏の書籍経由なので、いろんなところでヴァレラが考えていたことと違っているかも。ヴァレラはもっと機械論的だけど、河本氏はもうちょっと違う感じがあるので。
ksk_S @alltbl @pooneil おっしゃるように、ヴァレラは二元的に語られやすい自律性を一元論から説明しようとしましたが、河本さんの最近の本は、自律性の魔法を機械論的な世界に再度吹き込もうとしているように思えます。
ありがとうございます。やはり私の理解はもっと階層的創発的なものでした。「Embodiement、Enactionを突き詰めると、表象と一人称的体験は同じものを表と裏と考える」Embodied mindではそのような取り扱いでしたっけ? 見逃してるのかも。
@alltbl どういう文脈だったかというと、[動作のドメイン]と[観察者/表象のドメイン]とが分化するとしてそれの起源はそのどちらでもないものであるのが尤もらしくないか、つまり、動作から表象が創発するって考えかたに留保を置きたいって話です。強い根拠はないです。
ksk_S @alltbl カオスは外側かもしれませんね。オートポイエーシスやホメオスタシスはシステムの内部に外側をうまく取り込んでいる。内的な自然淘汰という形で。
alltbl @ksk_S 現実世界のカオス?と、コンピュータのカオス、との違いについて、考察すると? ビット表示を持ち込んでカオスを語るのは、外側を取り込むことではないか?
ksk_S @alltbl それは本質的に離散化が、創造の源であるという意味でしょうか?ロバートショーの話?
alltbl @ksk_S いや、僕らが観察するには、なにかゲージがいる。コンピュータに読めるようにするというのはそのひとつ。創造の起源かどうかは分からないけど、観察っていうのは創造的行為という意味ではそうですね。
ksk_S @alltbl なるほど。観察には比較対称となるものが必要と。意識の問題は、自己の問題だと思ってるんですが、それも同じことかもしれませんね。意識体験には対象と、ものさしである自己=ホメオスタシスの両方が必要。その間のずれとしてしか観察は存在しない。
追記:見直してみたら、「Embodiement、Enactionを突き詰めると、表象と一人称的体験は同じものを表と裏と考える」ってのと「[動作のドメイン]と[観察者/表象のドメイン]とが分化するとしてそれの起源はそのどちらでもないものであるのが尤もらしくないか、つまり、動作から表象が創発するって考えかたに留保を置きたいって話です。」てのとはほとんど同じことを言っていることに気付いた。
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- / 投稿日: 2012年06月04日
- / カテゴリー: [オートポイエーシスと神経現象学]
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