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■ 紀要原稿「盲視の神経現象学を目指して」を(昨年)書きました
昨年、東北大学倫理学研究会」発行の学術雑誌 Moralia に紀要原稿を書きました。
「盲視の神経現象学を目指して」 吉田 正俊 MORALIA 20-21 171-188 2014年11月
あいにく原稿はwebからはアクセス出来ないようなのですが、内容としては、これまでに行ってきた「ギャラガー&ザハヴィ『現象学的な心』合評会」および「科学基礎論学会 秋の研究例会 ワークショップ 「神経現象学と当事者研究」」での発表をまとめたものです。
そのときにいくつかメモったことをまとめてブログ記事にしてみました。
Evan ThompsonによるZahavi論文へのコメントを読んでたら、現象学の自然化について、二つのありうる方法のうちの後者がThompsonのmind in lifeにあるというのを見て、読まなくてはと思った。
前者はいわゆる現象学的心理学で、後者は「生物学的システムが持っている、自己組織化およびsense-makingする能力における超越論的な地位を(現象学が)明らかにすることによって、現象学は自然という概念を更新しうるし、経験的と超越論的という二分法を更新しうる」と書いてあった。
要はオートポイエーシスが作動することによって創発する現象学的ドメインっていうあれのことらしい。実験科学的なところでbridge the gapしようとするのはうまくいかない自然化で、構成論的な方から考えるべしってところか? まあそのうち現物を読むことにしようと思う。
神経現象学の紀要を書くために、Dan Zahavi (2013): Naturalized Phenomenology A Desideratum or a Category Mistake? を読んでた。Evan ThompsonのMindin Lifeへの言及はHusserl Studies 2009でのZahaviによるMind in Lifeの書評とほとんど同じような文章だった。いったん表現を固めたらばあとはそれを使い回しするものらしい。どんどんパラフレーズしてほしいものだけど。
ブリタニカ草稿 (ちくま学芸文庫) エドムント フッサール (著), 谷 徹 (翻訳)を図書館で借りてきた。「< >は訳者が<語群の意味上のまとまり>を示すために用いた記号である」ってあって、これが便利。たとえば英語だったら<語群の意味上のまとまり>は文法的に推定できても、日本語に訳される時点でその情報がしばしば消えてしまうわけで、このような手がかりはありがたい。というかいつも自分で< > (わたしのばあいは[ ]だけど)を書き込んで理解している。もう翻訳はこれを必須にしてほしいわ。
「現象学と間文化性」谷徹著を読んでいたら受動的綜合について「感覚的なもの…は同質的な物同士がまとまり、異質的なものとのコントラストを生み出して…「際立って」くる。この際立ちが「私」を「触発」する」(p.131)とある。これはまさに知覚サリエンスから動機サリエンスじゃないか。
"passive synthesis"とsalienceでぐぐってみた。ここでの「触発」とはAffektionのことのようだ。エヴァン・トンプソンのLife and Mindの中でもsense-makingの文脈でaffective salienceの語が出てくる(p.376)。
Life and Mind 12章でフッサールの"Analyses Concerning Passive and Active Synthesis"に言及している。英訳本にあたってみるとフッサールは知覚サリエンシーについて書いてる:
"whether the datum is salient in the special sense and then perhaps actually noticed … depends upon the datum's relative intensity (p.214)
"there is naturally a certain relief of salience, a relief of noticeability, and a relief that can get my attention … we will still have the difference of vivacity, which is not to be confused with a materially relevant intensity"(p.215)
こことかまるで私のサリエンシーの総説だ。
私がこの話題にこだわっているのは、統合失調症におけるabberent salience説と自己の現象学的分析に関連するから。
すると、知覚的サリエンスから動機的(or情動的)サリエンスの形成が自己の統一性にも関わるということを神経現象学的に捉える、というのが意識の神経科学のプログラムとなりうる。全てがつながってきた!(<-jumping-to-conclusions bias)
「発生的現象学における時間と他者」 山口 一郎著 ここで時間的意識における受動的綜合とヴァレラのspecious presentへの言及がある。
神経現象学紀要、Evan ThompsonのLife and Mind参照したりとかメロポンの行動の構造参照したりとか色々手を広げすぎて、収拾がつかない。そもそもヘテロ現象学と神経現象学を正確に説明するだけで文字数が結構必要となる。
素人なりに、現象学的心理学で終わらせるのではなく、超越論的現象学の自然化としてザハヴィが引用しているメロポンの「超越論的哲学の再定義」とEvan Thompsonのsense makingと現象学的ドメインのオートポイエーシスまで書ききってしまうつもり。
sense-makingからphenomenological domainに繋げられないかなと思ってautopoiesis and cognitionを再読している。112ページ辺り。昔はさっぱりわからなかったけど、本当に「現象学的」ドメインだったのだな。
神経現象学紀要原稿書きあげた! 大幅に文字制限オーバーしているけど、構成を見なおせばなんとかなるところまで目処はついた。昼はFSL習得。神経科学大会のプレゼン作り。その他いろいろ。とにかくやりきった!寝る!
できた原稿を見なおして、このへんはもっと正確にしなきゃとかやりだしたらきりがないことに気づいた。でも今晩中に終わらす。
ラストの決め台詞はトンプソン2007のこれを使う:「有機体の持つオートポイエーシスとしての形式によって、ある種の(世界に対して規範的に関わりあうような)目的志向を持った自己性selfhoodを具現化される。神経活動の力学系的な形式によって時間性の持つ特別な構造が具現化される。…これらの知見は現象学の成果を自然現象に向けて使ったときにのみ得られるものだ。」
ここでの「形式」と「具現化embody」と「構造」とを正しくパラフレーズして「脳を含む力学系による内的なカテゴリー分け(=sense-making)によってそれが実現する」みたいなふうに書きたいのだがなんだかピシっと締まらん。こいつがキマれば細部があれでも完成した感じはするのだけれど。
原稿送付した!
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- / 投稿日: 2015年05月14日
- / カテゴリー: [オートポイエーシスと神経現象学] [ギャラガー&ザハヴィ「現象学的な心」]
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