[カテゴリー別保管庫] ギャラガー&ザハヴィ「現象学的な心」

2013年6月29日(土)に一橋大学で開催された第2回自然主義研究会:ギャラガー&ザハヴィ『現象学的な心』合評会で「神経科学の立場から」ということで発表を行いました。このときの内容を「科学基礎論学会 秋の研究例会 ワークショップ 「神経現象学と当事者研究」」での発表内容とともにまとめて、東北大学倫理学研究会発行の学術雑誌 Moralia に紀要原稿を書きました。このカテゴリーではこのときの準備などで考えたことについて書いたエントリをまとめてあります。

2016年04月24日

「盲視の神経現象学を目指して」がオンラインで読めるようになりました

2014に書いた紀要原稿「􏰀􏰀􏰀􏰀􏰀􏰀􏰀􏰀􏰀􏰀􏰀􏰀􏰀盲視の神経現象学を目指して」がオンラインで読めるようになりました。東北大学機関リポジトリ> 100 文学研究科・文学部 > モラリア >「盲視の神経現象学を目指して」

関連するブログ記事はこちらにまとめてあります: [カテゴリー別保管庫] ギャラガー&ザハヴィ「現象学的な心」

2013年6月29日(土)に一橋大学で開催された第2回自然主義研究会:ギャラガー&ザハヴィ『現象学的な心』合評会で「神経科学の立場から」ということで発表を行いました。このときの内容を「科学基礎論学会 秋の研究例会 ワークショップ 「神経現象学と当事者研究」」での発表内容とともにまとめて、東北大学倫理学研究会発行の学術雑誌 Moralia に紀要原稿を書きました。このカテゴリーではこのときの準備などで考えたことについて書いたエントリをまとめてあります。

内容をかいつまんで書くとこんなかんじになります:

盲視の神経現象学はどうすれば可能かという問題意識から、ギャラガー&ザハヴィ「現象学的な心」(以下G&Z本)を読みこんだ。

G&Z本で「神経現象学」の実践例としてあげられている研究は実のところ「内観的に異なる状態AとBに対応する脳状態CとDを見つけるという対比的手法」を用いており、デネットの言う「ヘテロ現象学」の枠組みを超えてない。

現象学を「現れや所与の次元そのものを検討し、その内的な構造や可能性の条件を暴き出す」ことに使い、神経科学を「状態CとDの間を遷移する全体と部分の構造という力学系的な取り扱いをする」ことに使えるようになったときにはじめて「神経現象学」が目指す意識の科学が可能になるのではないか。

ブログの記事を見てもらうと、たったこれだけのことを書くためにかなり労力をかけて自分の専門の領域を広げようとしている様子がわかるのではないかと思います。

今後もこういう活動を続けてゆく予定です。乞うご期待。


2015年05月14日

紀要原稿「盲視の神経現象学を目指して」を(昨年)書きました

昨年、東北大学倫理学研究会」発行の学術雑誌 Moralia に紀要原稿を書きました。

「盲視の神経現象学を目指して」 吉田 正俊 MORALIA 20-21 171-188 2014年11月

あいにく原稿はwebからはアクセス出来ないようなのですが、内容としては、これまでに行ってきた「ギャラガー&ザハヴィ『現象学的な心』合評会」および「科学基礎論学会 秋の研究例会 ワークショップ 「神経現象学と当事者研究」」での発表をまとめたものです。

そのときにいくつかメモったことをまとめてブログ記事にしてみました。


Evan ThompsonによるZahavi論文へのコメントを読んでたら、現象学の自然化について、二つのありうる方法のうちの後者がThompsonのmind in lifeにあるというのを見て、読まなくてはと思った。

前者はいわゆる現象学的心理学で、後者は「生物学的システムが持っている、自己組織化およびsense-makingする能力における超越論的な地位を(現象学が)明らかにすることによって、現象学は自然という概念を更新しうるし、経験的と超越論的という二分法を更新しうる」と書いてあった。

要はオートポイエーシスが作動することによって創発する現象学的ドメインっていうあれのことらしい。実験科学的なところでbridge the gapしようとするのはうまくいかない自然化で、構成論的な方から考えるべしってところか? まあそのうち現物を読むことにしようと思う。


神経現象学の紀要を書くために、Dan Zahavi (2013): Naturalized Phenomenology A Desideratum or a Category Mistake? を読んでた。Evan ThompsonのMindin Lifeへの言及はHusserl Studies 2009でのZahaviによるMind in Lifeの書評とほとんど同じような文章だった。いったん表現を固めたらばあとはそれを使い回しするものらしい。どんどんパラフレーズしてほしいものだけど。


ブリタニカ草稿 (ちくま学芸文庫) エドムント フッサール (著), 谷 徹 (翻訳)を図書館で借りてきた。「< >は訳者が<語群の意味上のまとまり>を示すために用いた記号である」ってあって、これが便利。たとえば英語だったら<語群の意味上のまとまり>は文法的に推定できても、日本語に訳される時点でその情報がしばしば消えてしまうわけで、このような手がかりはありがたい。というかいつも自分で< > (わたしのばあいは[ ]だけど)を書き込んで理解している。もう翻訳はこれを必須にしてほしいわ。


「現象学と間文化性」谷徹著を読んでいたら受動的綜合について「感覚的なもの…は同質的な物同士がまとまり、異質的なものとのコントラストを生み出して…「際立って」くる。この際立ちが「私」を「触発」する」(p.131)とある。これはまさに知覚サリエンスから動機サリエンスじゃないか。

"passive synthesis"とsalienceでぐぐってみた。ここでの「触発」とはAffektionのことのようだ。エヴァン・トンプソンのLife and Mindの中でもsense-makingの文脈でaffective salienceの語が出てくる(p.376)。

Life and Mind 12章でフッサールの"Analyses Concerning Passive and Active Synthesis"に言及している。英訳本にあたってみるとフッサールは知覚サリエンシーについて書いてる:

"whether the datum is salient in the special sense and then perhaps actually noticed … depends upon the datum's relative intensity (p.214)

"there is naturally a certain relief of salience, a relief of noticeability, and a relief that can get my attention … we will still have the difference of vivacity, which is not to be confused with a materially relevant intensity"(p.215)

こことかまるで私のサリエンシーの総説だ。

私がこの話題にこだわっているのは、統合失調症におけるabberent salience説と自己の現象学的分析に関連するから。

すると、知覚的サリエンスから動機的(or情動的)サリエンスの形成が自己の統一性にも関わるということを神経現象学的に捉える、というのが意識の神経科学のプログラムとなりうる。全てがつながってきた!(<-jumping-to-conclusions bias)

「発生的現象学における時間と他者」 山口 一郎著 ここで時間的意識における受動的綜合とヴァレラのspecious presentへの言及がある。


神経現象学紀要、Evan ThompsonのLife and Mind参照したりとかメロポンの行動の構造参照したりとか色々手を広げすぎて、収拾がつかない。そもそもヘテロ現象学と神経現象学を正確に説明するだけで文字数が結構必要となる。

素人なりに、現象学的心理学で終わらせるのではなく、超越論的現象学の自然化としてザハヴィが引用しているメロポンの「超越論的哲学の再定義」とEvan Thompsonのsense makingと現象学的ドメインのオートポイエーシスまで書ききってしまうつもり。


sense-makingからphenomenological domainに繋げられないかなと思ってautopoiesis and cognitionを再読している。112ページ辺り。昔はさっぱりわからなかったけど、本当に「現象学的」ドメインだったのだな。


神経現象学紀要原稿書きあげた! 大幅に文字制限オーバーしているけど、構成を見なおせばなんとかなるところまで目処はついた。昼はFSL習得。神経科学大会のプレゼン作り。その他いろいろ。とにかくやりきった!寝る!

できた原稿を見なおして、このへんはもっと正確にしなきゃとかやりだしたらきりがないことに気づいた。でも今晩中に終わらす。

ラストの決め台詞はトンプソン2007のこれを使う:「有機体の持つオートポイエーシスとしての形式によって、ある種の(世界に対して規範的に関わりあうような)目的志向を持った自己性selfhoodを具現化される。神経活動の力学系的な形式によって時間性の持つ特別な構造が具現化される。…これらの知見は現象学の成果を自然現象に向けて使ったときにのみ得られるものだ。」

ここでの「形式」と「具現化embody」と「構造」とを正しくパラフレーズして「脳を含む力学系による内的なカテゴリー分け(=sense-making)によってそれが実現する」みたいなふうに書きたいのだがなんだかピシっと締まらん。こいつがキマれば細部があれでも完成した感じはするのだけれど。


原稿送付した!


2013年06月29日

「現象学的な心」合評会、無事終了!

「現象学的な心」合評会、無事終了した! 来てくれた皆さんどうもありがとうございました。飲み会などでの反響を見たかんじからすると、けっこう楽しんでもらえたのではないかと思う。心配だったのは哲学者向けの話にできていたかどうか(理系向けに専門的になりすぎてなかったか)だったのだけど、石原先生にはよく分かったと言ってもらえた。

こんなにたくさん「ヘテロ現象学」とか「神経現象学」とか言ったのは人生初めてだ。しゃべり声がまだ頭の中を反芻している。

会の途中では、現象学自体の課題としてはなかなか行き詰まってるんではないかみたない、重苦しい話も続いた。演者の一人の植村さん@uemurag のように「フッサールがこう言った」ではなくて現象学発生時に戻って考える人がおられるというのを知ったのも収穫だった。(とはいえ、あくまで哲学的問題からのことであって、自然化の問題のためではないようだ)

原さんが採りあげておられたownership-agencyの問題が現象学的アプローチの成果として利用できそうであること、石原先生から説明のあったギャラガーの仕事の背景などもとても役に立った。このへんの一つのテストケースとして考えていくというのがよさそうだ。

今回のトークをきっかけにまたいろいろと話も広がっていきそうなかんじ。俺たちの戦いはまだこれからだ!(<-今後の吉田正俊先生の活動にご期待ください。)

今回のトーク、そして池上さんのところの講義を通して分かってきたのは、けっきょくのところ、わたしが問題としていたような「一人称的な意識の神経科学を進めるのにはなにが必要か」という問いの答えとなりそうなのは「神経相関を越える方法論」を作るということであるようだ。まあある意味堂々巡りではあるのだが、この目標のためには、神経現象学を正しく実践する、つまり現象学と力学系を正しく使うということが必要になるようだ。

力学系を通して現象学的な二元論の克服を目指すという研究プログラムについてもっと考えてみようと思った。今日の議論の途中ではなぜか、私がヴァレラの神経現象学を擁護するみたいな展開になったけど、じつのところVarela 1996, 1999, Lutz et al 2002まで読んで、わたしも正直この先を考えてみようというつもりはなかった。ずっとLutzの仕事は現象学を徹底できてないんではないかと思っていたのだが、今日の議論で実際その通りであることが分かって大きな収穫だった。

それと同時に、「内観主義的に意識状態Aと意識状態Bを比べる」というのが半分は神経相関の問題であり、「意識状態Aと意識状態Bの構造を分析する」といったやり方でヘテロ現象学ではない分析をすること、「状態AとBでの脳内ダイナミクスを解明する」ということを組み合わせれば神経現象学を実践することは出来るのではないか、という考えに辿りつくことが出来た。これも大きな収穫だった。

思えば1990年代後半に「オートポイエーシス」を読んで超ハマリ、超精読してたころから、いつかこれが自分がやっている実験的な仕事とconvergeする日が来ないものかと考えてきた。今日はその野望が一歩進んだ日だと言えるだろう。とはいえなんの成果もあるわけでもない。その野望を実現するためには清水博先生の道を手本にしようと心に誓ったものだったのだが、未だに実現できてない。さっさとたくさん仕事をして、次のステップに進むしかない。俺たちの(ry


2013年06月28日

ギャラガー&ザハヴィ『現象学的な心』合評会 神経科学の立場から レジメアップしました

ギャラガー&ザハヴィ『現象学的な心』合評会 神経科学の立場から レジメアップしました。

ギャラガー&ザハヴィ『現象学的な心』合評会 第3報告:神経科学の立場から from Masatoshi Yoshida

とにかくスライド最後まで作って、レジメも作成しました。いちおう今トークしろって言われても出来る状態。

じつのところ、いろいろと間に合ってないのだけれど(ほんとのところ、志向姿勢ってなんだ?)、なんか達成感が出てしまって、緊張感が抜けた。ここからもう一段ギアを上げて、クオリティーを上げてゆく所存。Evan ThompsonがMind in Lifeでヘテロ現象学について言及している部分もコピーしておいた。これから読む。

ともあれ6月後半はなんだか怒濤の日々だった。来週から通常運転に戻るので、いろいろと生産性を上げてゆきたい。せめて週末はゆっくりさせてほしいと言いたいところだが、日曜は朝からフットベースの練習試合なのだった。ウェーイ。(<-マイブーム)


2013年06月09日

ギャラガー&ザハヴィ「 現象学的な心」2,3章について

2013年6月29日(土)13:00~18:30 一橋大学にて、第2回自然主義研究会:ギャラガー&ザハヴィ『現象学的な心』合評会があります。私も「神経科学の立場から」ということでしゃべります。

今回は2章(方法論),3章(意識、自己意識)についていろいろメモったことをまとめておきます。ツイートは話の流れのために順序など編集してあります。

@you_mlpty さん、@plastikfeld さんのツイートを使わせてもらいました。どうもありがとうございます。


「現象学的な心」再読していたが、2章の方法論のところの、ギャラガーのfront-load phenomenologyの説明を読んで、やっぱり納得がいかない。以前も書いたように、現象学的な、心の解明へのアプローチを標榜するなら、ヘテロ現象学(by ダニエル・デネット)では出来ないことでなければならないだろう。

それは厳しすぎる基準だろうか? そんなことは無いと思う。ギャラガーの例で出てくるのはsense-of-ownershipとsense-of-agencyの違いだが、「この二つの概念を説明した上でその内観を言語報告させて脳活動の差を見る」これならヘテロ現象学でも完全に可能だし、現に認知神経科学で行われているようなことの多くはこの範疇に入る。

私が他に挙げられる例としてはRK judgmentがある。記憶再認課題において、被験者はいろんな図形A,B,C,…を見せられた上で、新たな図形を見せられる。この図形がさっき見たものかどうかを答える(つまりold-newの二択)というのが課題。

ポイントは、このときにメタ認知的な報告を加えるということ。「さっき同じ図形を見たときのことを追体験して思い出せる」ときはR(remember)、そういうのはなくて「単に見た覚えがある」ときはK(know)。このように個々の試行を分類して比較してみると、RとKとで脳活動部位が違うという報告がある。こういう研究に対して「現象学的アプローチである」という必要は全くないように思われる。すくなくともやっている研究者は現象学的アプローチだとは思っていないだろう。

ヘテロ現象学では出来ないようなことをするのだとしたら、「言語報告」が「現象的経験」と乖離しているような状況について取り扱う必要があるのではないだろうか。ヘテロ現象学では「言語報告」の裏にあるようなものは認めないのだから。(認めてしまったらヘテロ現象学はなりたたない)

気をつけなくてはならないのは、問い方が悪くて言語報告にならないことはヘテロ現象学の瑕疵ではないということ。たとえばさっきの記憶再認課題にRK judgmentが付いていなければ、RとKのようなものは取り出せないのだが、それは内観の仕事であって、現象学の仕事ではない。現象学的アプローチが繰り返し「現象学とは内観報告のことではない」と強調するのだから、このような内観の区別自体を現象学的アプローチの手柄にするわけにはいかない。

私の理解が正しいなら、そのような内観を反省的に捉えて、反省を介して作り上げられるものとそうでないものとをより分ける、これは現象学の仕事だ。そういう意味では、RとKとの違いはRが反省的に過去の経験を追体験する(エピソード記憶でのメンタルタイムトラベル)のに対して、Kではそのような反省がなされないこと、この種の分析がもし神経科学に役立つなら現象学的と言えるのではないだろうか?

あと、ひとつフォローというか補足しておくと、RK judgmentには現象学は要らないだろうけど、Tulvingがエピソード記憶の特徴として挙げた"autonoetic consciousness"という概念には現象学的な前反省的自己意識の概念が入っているように思われる。


んで、なにを書きたかったかというと、ヘテロ現象学では説明できないようなものを持ってくるとしたら、あらゆる内観報告をface valueにとってしまうとじつはそれと現象的経験とが乖離してしまうような現象を持ってこないといけなくなる。ここで盲視の出番ということになる。

もしくは盲視の話でなくても、Ned Blockが議論していたoverflowのような、accessのないphenomenal consciousnessのようなものがあり得るかという問題になる。でも現象学自体はそのようなクオリアみたいなものは考えていなくて、現象的意識は志向性そのものである。

というわけでぐるっと回ってみたらなんか話がねじ曲がってきた。ここでもう一回まとめてみる。ヘテロ現象学は内観報告されたものをその内実を問わずに扱うことによって、消去主義的かつ機能主義的な意識観に立つ。現象学は現象的意識を志向性と同一視することによって非志向的なクオリアを否定する?

ああなるほど、このへんが私は分かっていないのだな。非主題的な、投射された現出はつねにそれが指し示す対象と共にあって主題的な意識として構成されるわけで、ってやっぱこのレベルの理解ではダメで、もうちょっと詳しいものを読まないとダメか。うーむ。


.@you_mlpty ありがとうございます。「経験の構造の違い」ここですよね。「経験Aと経験Bが違う」というだけでは内観にすぎないわけで。いままでに私が理解したところでは「反省を経ているか否か」というのがツールのひとつだということは分かったのですが、他に何が使えるのかがまだ分かってないという状況です。


.@plastikfeld 簡潔にまとめていただいてありがとうございます。スライドなどで活用させていただきます。


.@you_mlpty なるほど、昔の現存在分析みたいなのとは違ったアプローチがあるのですね。しかもParnasってParnas & Zahavi 1998 (前反省的自己意識の元ネタ論文)の人ですね。こうなると「自己」の章も読んだ方がよいのかも。

.@you_mlpty ありがとうございます。読んでみます。

最近、統合失調症の精神症状のサリエンス仮説あたりを読んでいるときに、空間に定位されないような自己と自明性の障害がsense-of-agencyがらみでinsulaの機能障害と繋がるのだろうとかそういうことは考えてた。また繋がってきた!(<-ジャンピングトゥーなんとかバイアス)


盲視を現象学的アプローチで見てみるとしたら何が言えるだろうか? 3章での議論はどうだったかというと、盲視にはメタ認知が欠けていて、それはhigher order theoriesと整合的であるという議論があるが、現象学的にはhigher-order theoriesが前提とするような反省的自己意識を想定する必要はなくて、ある種の前反省的自己意識がすでにあるのだ、みたいな話までで、直接的に盲視についてなにかを言っているわけではない。

盲視で重要な点は、「意識内容を伴わないなにかがある感じがする」ということで、しかもたぶんこれは端的に利用できる情報が少ない(たとえば、健常視覚に非常に暗い刺激を出したとき)とは違うということで、これはもっと積極的に現象学的に読み解けないだろうか? 対象を指示できるということと、なにかがある感じ(presence)だけがあることとを分けて考える必要があるとしたら、それは現象学側へも寄与しないだろうか?

これは周辺視野で起こっていることとも似ているが、同一視できるかどうかは分からない。William Jamesの意識の分析でもfringeの概念とかがあることを考えると、すでにそれなりに扱われているんではないだろうか?

盲視サルの意志決定の実験をやったときの知見は、盲視サルでは視覚刺激の強制選択は出来るのだが、刺激の明るさを変えて難易度を変えても反応時間が変わらないということだった。このことはつまり、確信度が上がるまで待ってから意志決定をすることが出来ないということを表している。

論文を書いたときは「deliberateでなくなる」という表現をした。普段われわれは視覚情報を用いて、それに働きかけ、というループを作ってそのつど見たものが正しかったということをverifyしているのだけど、盲視ではどうやら視覚入力がveridicalでないようなのだ。

veridicalではないという知見からすると、「盲視ではメタ認知的に閾値が高い、つまりなにかがあると決断することに慎重になっている」と結論づけるHakwan Lauの考え方はなにかが違っていると考えていた。現象学で言うキネステーゼが知覚に寄与する(Noe的に言うなら構成する)というループの部分で盲視ではなにかが起きているのではないだろうか、というのが以前から考えていることだった。そういうわけでNoeやVarela経由ではあるものの、盲視について、現象学的に親和性のある立場からの解釈を考え続けてきたのだった。


.@plastikfeld 1版と2版、読んだ部分だけ部分的に比較してみましたが、そもそもあまり大幅な変更があったかんじはしなかったです。副題を無くしたりとか、パラグラフ分けを増やして読みやすくしたりとか。5章ではNoeについての言及がやや増えていましたが。

ほんとだ、「2章の結論部分の冒頭4段落分」ここは変更があって、反省の前後という経験の構造を捉える方法論のひとつが言及されている。

あと、前倒し現象学の部分でもownershipとagencyに違いがあることだけではなくて、両者とも1st orderの前反省的な現象的経験である、とい記述が増えていた。でもこれは相違点ではない。両者は経験の構造としてどう違うか? 8章読んだ方がよさそうだ。


今日もいろいろ書いた。これらをまとめてブログのエントリにする。これまでに書いたことをまとめて、それに盲視について脳に立ち入りすぎない説明をちゃんと作るとそれで充分30分しゃべる分量にはなるだろう。あとは哲学者に向けてこれってどんな風に考えることが出来ますか?って話題を振る。

.@plastikfeld よろしくお願いします。もういろいろぶつけて、みなさまの反応を待つというかんじで行きたいと思います。


2013年05月18日

ギャラガー&ザハヴィ「 現象学的な心」合評会準備中

2013年6月29日(土)13:00~18:30 一橋大学にて、第2回自然主義研究会:ギャラガー&ザハヴィ『現象学的な心』合評会があります。私も「神経科学の立場から」ということでしゃべります。2011年1月20日の南山大学の鈴木貴之さんのところでのトークしたとき以来の哲学者との対話企画です。カムカムエブリバディー。

それの準備でいろいろメモったことをまとめておきます。


2012/11/16

ギャラガー&ザハヴィ「 現象学的な心: 心の哲学と認知科学入門」の二章途中前。ここにあるような議論だけでヘテロ現象学がreject出来るとはちと思えない。守備力は期待していないから、攻撃力側、つまりこれだけ役に立つよってことの糸口を見つけられればよしとするしかないか。

2012/11/18

「現象学的な心」2章読み終えた。うーむ、前半はフッサール現象学だから、現象学の自然化とかお構いなしだし、後半での現象学の自然化はヴァレラの話はすでに知っていて、残りはヘテロ現象学でも置き換え可能じゃんとか思う。あとは最低限3章(意識、盲視への言及含む)と5章(知覚)を読む。

Sense of agencyとsense of ownershipの違いは現象学的分析によるものである、なんて言ってるけどそんなのメッツィンガーは同意しないんじゃないか?

ヴァレラのやっていることが一番現象学的であると思うんだけど(エポケーと現象学的還元を被験者自体が訓練した上で、被験者が発見的に知覚の性質を分類する)、それですらLutz以降だれもやっていないことから分かるように研究プログラムとして成り立っているとは思えない。

3章の盲視に関連する部分はHOT(higher-order theory)による説明が焦点。というわけでHakwan Lau and David RosenthalのTICでも読んどくか。

2012/11/24

「現象的な心」は3章の自己意識のところを読み進めている。HOTとの対決については、今のところ「現象学ではこう言うのである」みたいなフッサール訓詁学みたいな論調で、戦う気がまったく感じられない。たとえ入門書と銘打っているとしても。

とはいえ、論争的な本が好きかというと、そうでもない。論的に勝つために無理めな論理でも強弁したりされるとすごく徒労感を感じる。フェアで率直なのがいちばん好き。

そうだな、フェアなのが一番だ。そうしたら、翻って考えるならば、実験科学者が哲学書に文句付けるなんて傷つかない安全区域から文句言ってるだけでぜんぜんフェアでない。どうしたら痛みを抱えることが出来るか考えながら読んでみることにしよう。そのほうがスリリングな話に出来るはずだ。

2013/2/23

「これが現象学だ」谷徹の最初の方を読んでて、フッサールの「絶対的なねばならない」という表現が出てきて、ずいぶんといかめしいなあと思ったのだが、英訳の"absolute must"って「これだけは絶対外せない」たとえば「シューゲを聴くならラブレスが絶対マスト」くらいのことじゃんとも思った。

「現象学的な心」3章が終わったところだが、意味が取れないところがあって、けっきょく原書を参照して疑問を解消した。たとえば、「なんで運転しているとき、細かいことを覚えていないのだろう? それは注意が足りないということではなくて、実践的行為のある不可欠な側面なのだ。実践的行為というものは…」という記述があったのだが、ここが"It is X, that …"(非制限用法)なのに、"It is X that …"(制限用法)で訳されてないか?

2013/2/24

「現象学的な心: 心の哲学と認知科学入門」は1,2,3,5章を終了した。4章飛ばしたけど、ヴァレラと力学系とかの議論が出てくるようなのでこっち読んだ方がいいかも。あとは7章読む。全部読むよりは、これまで読んだところをもう一回原文と突き合わせて読む方がよさそう。

3章なんとか読んだけど、「前反省的自己意識」pre-reflective self-consciousness って概念がどうにも飲み込めないのでもう一回読み直さないと頭に何も残らない。

5章(perception)は椅子の図の話とenactionと相互主観性、と聞いたことのある話だったので比較的わかりやすかったけど、それでも「不在の射影absent profileを付帯現前appresentかないし共志向co-intendする」とか知らん概念三連発で死んだ。

「一人称的所与性」(first-personal givenness)とか言われるとブチ切れて、「一人称的に与えられているということ」くらいまでかみ砕きたくなる。「私有性」ってなんのことかと思ったらminenessの訳だった。「私秘性」privacyとはべつの概念らしい。

2013/2/26

「これが現象学だ」を1/3くらい読み進めた。「主題的」の概念が分かってきた。投影された面を非主題的な感覚として受け取り、それから立方体だという主題的な知覚として構成するのが志向性で、それを自分が見てるという感じが前反省的自己意識でこれは非主題的。

この志向性の部分が現象学を現象学たらしめているものなので、ここで表象は出てこない。(表象を志向性で置き換えているかんじ) だから、現象学は反表象主義的になる、というか反省する前の領域を大きめに取っている。ここがhigher-order theoryとの違いになる。

2013/3/9

「現象学的な心」いったんストップして、フッサール現象学の入門書を読みあさる。「これが現象学だ」谷徹、「フッサール ~心は世界にどうつながっているのか」門脇俊介、「現象学とは何か」新田義弘、「フッサールの現象学」ダン ザハヴィ、このあたり。

志向性+現象学的還元から、時間論(pretention, retention)、空間論(キネステーゼ意識)、相互主観性、という基本的な枠組みを「これが現象学だ」を読んでざっと把握した。自分が知りたいのは感覚・知覚論なので、論理学研究とか言語論的なところはすっとばして読んでる。

「フッサール ~心は世界にどうつながっているのか」は引用ゼロで、フッサール流のいかめしい術語がないのが私にとってはたいへんありがたい。この調子で現象学的還元やノエマ、ノエシス、コギトも消し去ってほしい。(<-むちゃ言うな)

フッサールの現象学的な知覚論がさらにどのようにメルロ・ポンティによって展開され、フランシスコ・ヴァレラやアルヴァ・ノエがそれをどのように認知科学に繋げていこうとしたのか、そしてそれはわれわれ神経科学者が使えるだろうか、というのがわたしが「現象学的な心」を読むにあたっての問題意識。

つぎは「フッサールの現象学」に向かう。ザハヴィは「現象学的な心」の著者のひとり。「現象学的な心」3章で出てきた「前反省的自己意識」(pre-reflective self consciousness)がフッサールの言葉で言うとなんなのか知りたいんだがまだ不明。

とりあえずこの3章の元ネタがJournal of Consciousness Studies 1998であるらしいところまでは分かった。Parnas & Zahavi 「現象的意識と自己意識:表象理論に対する現象学的な批判」

ザハヴィ本の紹介記事:「フッサールのいう対象やノエマといった概念が、脳内の「表象」の話なのか、それとも現実の「実在」なのか…この問題に直接的に言及し、フッサール自身の文章を引用しながら、代表的な解釈を紹介」これは読むべきだな。

2013/4/2

「現象学的な心」合評会の構想を練る。原さんからは「認知神経科学の立場から現象学が役に立つかどうか喋ってほしい」と言われている。じっさい、専門家じゃあないのだから「フッサールの現象学のうち超越論的側面を無視しないかぎり現象学の自然化なんて無理じゃないか」とかそういうのは無理。

とはいえ、現象学が意識の神経科学に役立つとしても、直接、方法論的に役立つかとか、なんらか研究プログラムとしてたらしい方向性が見えないかとか、そういうクリエイティブなことを言うのは簡単ではない。いままで読んだ1-3,5章で自分の中での論点となるのは二つで、

1) ヘテロ現象学との対比。認知神経科学が活用してきた内観報告的な方法(RK judgmentとかautonoetic consciousness)にはヘテロ現象学で足りるか。検出と気づきの問題では? ヴァレラの方法は研究プログラムたり得るか。

2) HOTと前反省的自己意識、どちらが盲視を理解するのに役に立つか? 正直ハクワンが言っているようなHOTから前頭皮質の関与みたいな話で盲視を説明しようとするのには同意できなくて、それに対抗する手立てを現象学が与えてくれるならそれは大歓迎。

でもこの「前反省的自己意識」ってやつがどのくらい説得的なのかがよく分からん。文献を調べたところ、どうやらフッサールの言葉ではなくて、Zahaviの言葉らしいので、もうちょっとcriticalに読んでおきたい。

さいきんはFristonにかぶれて、Shadlen/Dehaene的なevidenceの蓄積によるdecisionってのは意識とは関係ないなって気持ちが強くなってきている。つまり、自由エネルギー的に言って、視野像のサプライズを減らすってのと、目を動かして視野像を変えるってことの違いでしかないんだったら(active inference)、evideneが蓄積した閾値を超えたということをそんなに特別視しなくてもよいし、意識はもっと遅れてやってくるんで充分だっていう見方をするようになった。

メタ認知自体に対してはまだ態度を保留しているけど、これがフィードフォワードの統計的な世界であって、フィードバック的力学系的な世界とは別もんだってところまでは分かった。

前回の冬講義の最後に出したスライドを後で更新したんだけど、腹側経路の双方向の回路でサプライズとそれをexplain awayする意識があってこちらは意識内容に関わり、背側経路の意志決定のシグナルとそれをexplain awayする意識があって、こちらはintentionに関わるとか。

2013/4/14

現象学的に言うなら、透明でないこと(occludeされていること)、ある面からしかものが見えないこと、とかが視覚を他の感覚と区別する特徴であり、われわれに感覚として与えられているものは限られているにも関わらず、隠された向こうにいるネコとかコップとかを知覚するのが意識の作用である、みたいな言い方をする。だから遮蔽物の徹底的な透明化がなされたり、複数のカメラから物体をあらゆる方向から見ることが出来るようになったりとかすることで、視覚という感覚がどのように変容を受けるのか、みたいなことに興味がある。

でもそういう「意識の作用」が超越論的なものである云々とか言われるとさっぱり分からない。ゲシュタルトがゲシュタルト性とか言われてそれ以上なにも言えなくなってしまうのと同じような、20世紀前半の状況を引きずっているだけのようにも思えるのだけど。

2013/4/16

あいまにちょこちょこと現象学関係読んでいるのだが、やっぱり分からない。合評会は「神経科学者が現象学使えるかいろいろ読んで考えてみましたけど、けっきょく分かりませんでした」みたいなオチにするのがいちばん率直で正しいのかも。

「現象学的な心」2章でのエポケーと現象学的還元の説明を読んで、さらに「フッサールの現象学」ザハヴィの2章あたりにあるエポケーと現象学的還元の説明も読み進めている。現象学がしばしば内観と同一視されてきたこと、しかし現象学がいかに内観とはべつものであるかということが強調される。

つまり、内観というのはエポケーする前の自然主義的な態度(二元論を前提)を前提としたものであって(まだ、natural attitudeとnaturalistic attitudeの違いが分かってない。内観は明示的に後者を前提しているだろうか?)、一方、現象学とはある対象がどうやって現出するかの可能性の条件についての哲学的反省である、ということになる。だから現象学で出てくるのは時間の構造(把持/予持)とか間主観的な妥当性の正立とかそういうものが現象学的還元の成果であって、内観で対象を同定することではない。

だから、意識の脳科学への現象学の応用として挙げられているVarelaの仕事(Lutz et.al.)にあるような、認知課題中の準備状態に対する分類というのは、形こそ現象学的分析に似せてはあるけれども、じつのところこれは「精緻化された内観」に過ぎないのではないかと思う。

つまり、反省するべき対象を外界の刺激そのものではなくてその意識経験そのものに向けたからといって「内観ではない」とは言えない。それはたとえば、メタ認知における「信頼度」について考えてみれば分かる。

「信頼度」というのはまさに外界の刺激そのものではなくて意識経験に向けたものであるのだけれども、これは現象学的な反省とは言えない。なぜなら信頼度報告では意識経験を対象として報告しているだけであって、反省が為されていないから。

もしメタ認知を現象学的に扱うのならば、そのような信頼度が生まれる条件を知覚そのものとの関係から明らかにするといった理論的な仕事になるはずだ。ザハヴィの「前反省的自己意識」という概念は時間の現象学的分析から生まれて、それをGZ本ではHOT批判に応用したのだが、メタ認知というのはその文脈では「反省的自己意識」と捉えられることになる。

話を戻すと、Lutz et.al.の話もおなじこと。けっきょく、ヴァレラが構想したような「神経現象学」をやるためには、精緻化された内観で説明できないようなものを持ってこないといけない。

さらにLutz et.al.について言えば、精緻化された内観での条件AとBをさっ引く、という統計的やり方をしていて、力学系を媒介にして現象学と神経科学とを繋ぐというヴァレラの神経現象学の構想を二重に裏切っていると言える。

とはいえ、どうやったら脳科学を力学系的に取り扱えるのかということ自体が(計測も含めて)大問題なのでそこをつっこんでもしょうがない。

神経現象学の実践という意味でもう少し希望がありそうなのはヴァレラのべつの論文(哲学的な方)で書いてあった、現象学的な時間構造の分析(把持/予持)と脳内のコヒーレンスによるセルアセンブリの形成とが関連するかもって話。こっちは現象学的かつ力学系的でかつ脳科学が成り立ちそうだと思う。

いろいろ書いていたら、なぜかLutz et.al.を叩いて合評会の時間を保たすという卑劣なコンテンツが出来てしまった。こういうのじゃあなくて、現象学役に立ちます、と言いたい。誰も擁護してない、みたいな悲惨なのは避けたい。

いちばん避けたいのは、自信満々に現象学語って、あげく、現象学全然分かってないですねとか言われること。分かってないに決まってるんだから「この本からこう読み取ったんだけど」みたいな言い方にしないと私の心が折れる。

でも、正直なことを言えば、心が折れさえしなければどんどん不用意なこと言ってみたい。(<-エー) 無難なのは詰まらんし、とくに失うものがあるわけでもないし。

2013/4/18

「これが現象学だ」二周目だいたいすんで、かなり分かってきた。自然的態度と自然主義的態度の違いも分かった。先反省的自己意識という言葉自体は使っていないがそれと同様な概念(把持について非主題的に把持する)をフッサール自身が書いているということもわかった。

ただ、世界そのもののノエマ的意味の分析をしたことから、世界が意識によって構成されるという考えを断念して、言ってたことどんどんひっくり返して原構造とか原キネステーシスとか言い出しちゃったあたりから、ちょっとフッサールさん、考えすぎでおかしくなってない?と付いていけなくなった。

これでザハヴィの「フッサールの現象学」も読めそうだ。そのうえでもう一回「現象学的な心」に戻ってみることにしよう。盲視の話からのオチとしては、大学院講義でも話した、二つの視覚経路論とAlva Noeの折衷案で、キネステーシス意識が背側経路で自己と空間を作るって方向でまとめる。

Alva Noeみたいに色までaction説にするのは無理があると思うのだが、行動(と時間)は空間と自己を作るという意味で意識を構成している。そういう現象学的考えがわたしの意識の脳科学的モデルに影響を及ぼしてます、みたいな話にするのがいちばんウソがなくて、無理がない。

ついでに、そういう方向からenaction説を理論武装した上で、駒場講義でもその話題を深められないか試してみることにしよう。

2013/4/19

あしたは南山大学でやってる応用哲学会に行ってくる。人生初の経験なのだけれども、こういう集まりの雰囲気を知っておきたい。いちばん聞きたかったのは午後の「知覚」概念の臨界、だったのだけど、フットベースのコーチ今年度第一回があるので途中で抜ける。

行きの名鉄電車で「心身問題、その一答案」(大森荘蔵) を読んでいく予定。たぶん以前読んだけど覚えてない。脳から意識への因果って因果としておかしいから重ね描きにしましょうってのは分かるが、「予定調和」なのか「創発」なのかよくわからん。あと現象学との対比とか、違った風に読めるはず。

「心身問題、その一答案」読んだ。前読んだときよりはもう少し分かっただろうか。「意志とは元に行動を持続していることであり、よって意志は行動にあり、心の中にあるわけではない」とか面白かった。Schallの意志決定と行動選択の議論とか思い出した。

でも、肝となる「すなわち」の関係がまだわからん。さいしょこれは法則的関係なのかなと思った。「命令は不服従の可能性があるから命令なのであり、そうでなければ法則である」って表現があったけど、まさにそのような意味でisomorphicなんだろうと。でも、あとから日常生活と科学的描写の重ね描きはどちらかの描写が抜けることもあるとか、幻のときにはこの重ね描きにズレが生まれる、とか書いてあるのを見ると、そのような強い法則的関係があるということを言いたいのではなくて、場所と時間が同じものを指している、つまり存在論的側面について言っているだけのようにも思える。

だが最後の最後になって、幻のときには(正しく働いてない)脳が鏡像と同じ役割を果たしていて、脳科学者の役割はそこで「すなわち」の関係となっているものを見いだすことだ、というような締め方をしていて、やはり法則的関係なのか?とこのへんがわたしには明確になってこない。

2013/4/21

昨日南山大学まで応用哲学会に行ってきた。平行セッション4つで、大学の会議室を使ってワンフロアで開催という規模。

朝一9:55開始の大森哲学についてのトークのまえに部屋に入ったら観客が5人くらいしかいなくて超びびった。しかも全員壁際に座ってる。独特の文化? わからないがど真ん中に座って聞いた。トークの途中でパラパラ人が入ってきて最終的には15人くらいになった。どうやら哲学者は朝が弱いらしい。

玉川大の小口さんの話が聞けたので良かった。脳の並行処理でのサブパーソナルな表象で概念的かどうかの議論って出来るのか?ちょっと会って話したけど時間切れ。またの機会に。今日の本命は立教大の呉羽さんの話(enaction説への批判)だったのだけど、時間切れで途中退出した。

昨日の学会では、小口さんはスライドなしで配付した資料を読み上げる形式、他の方も文字が並んでいるスライドをほぼ忠実に読み上げるスタイルだった。実験科学をやっている者からするとどうして図がないのだろう?と不思議になるのだが、おそらくは文章で表現される論理に重きを置いているのだろう。

でも図がほしい。つかたとえ文章で書かれていたとしても、自分でメモ取るときに図にして理解しているし。想像するに、たとえば現象学だと、現出からtranscendして遮蔽されたところも込みでobjectを知覚するのが意識の作用、というのを図示したら二元論的になっちゃうからいかんとか?

合評会でスライドでなんか表現するとしても、これまでの自分の流儀で図にして説明すると思うのだけれど、なんか厳密でないように思われるのだろうか? どうにもわからん。ただ、そういう疑問というか違和感に突き当たっただけでも収穫か。Jakob Hohwyとかは比較的図を使ってたな。Alva Noeは完全に原稿読んでるだけだった。

ちゃんとトレーニングを積んでいくと、そのようなカント的な図式から、現出と対象とが分かちがたく結びついたノエマのイデアが頭にできあがって、そのころにはそういった図が全然不正確に見えるようになってくるって感じなのだろうか?

2013/4/27

門脇俊介『現代哲学の戦略―反自然主義のもう一つの別の可能性』「門脇氏はアンディ・クラークの『視覚経験と運動行為』を引用し、そこで紹介されるミルナーとグッデールの「二重視覚システム論」がマクダウェルやハイデガーの発想と親和的であることを明らかにしてうっちゃりをかますのである」 これは読むべきか。

ということで、「現代哲学の戦略 反自然主義のもう一つ別の可能性」門脇 俊介 著 図書館行って借りてきた。該当する部分は8章だったようだ。

ゼノン・W・ピリシン『ものと場所―心は世界とどう結びついているか』 「視野内の諸事物を同一のトークン事物として同定し、コード化による高次の概念的述定の基盤を提供するのが、初期視覚に組み込まれた、非概念的でサブパーソナルなFINSTの機能」これ見て、ああそういえば小口さんの発表の話に関わるなあとか思って「ものと場所: 心は世界とどう結びついているか」 作者: ゼノン・W.ピリシン をアマゾンで探してみたら、小口さんが翻訳者だった。なるほど。

門脇 俊介 「知覚経験の規範性」 (現代哲学の戦略 反自然主義のもう一つ別の可能性 8章)、OCRかけてテキストファイル作りながら読んでる。そしてら盲視への言及が出てきた。これは正解だったっぽい。

2013/4/30

Zahavi 2004 "Phenomenology and the project of naturalization" これとかにもあるように、ZahaviはPetitot,Varela, の"Naturalizing Phenomenology"の自然化には批判的なので、「現象学的な心」2章の後半にあるような現象学の自然化には批判的なはずだ。

ということでたぶん、「現象学的な心」の2章は前半をZahaviが書いていて、後半はGallagerが書いていて、このへんがちぐはぐになっているんではないかと推測する。これが、この本を読んでて、けっきょくどのような研究プログラムがあり得るのかがピンと来ない原因になっている。

最新の"Naturalized Phenomenology: A Desideratum or a Category Mistake?"ではこのへんもうすこし突っ込んだことが書いてありそうだが、そこまで話を追ってる余裕がない。

2013/5/1

.@ryo_tsukakoshi ありがとうございます! 昨日「ハイデガーと認知科学」を図書館で借りてきたのですが、こちらのほうの論文は自分が探している方向とは違っていたのを発見したところでした。

「表象なき認知」中村雅之 (シリーズ心の哲学II ロボット編)で、ヴァン・ゲルダーの力学系的アイデア及びA・クラークのコネクショニズム的立場からの返答の話を読んだ。けっきょく、ヴァン・ゲルダーの調速機の比喩はフィードバックコントロールで、A・クラークのエミュレーターはカルマンフィルター的な内部モデル(フィードフォワード)なので、池上さんと話題になったフィードバックとフィードフォワードの話と同型だなと思った。

ともあれ、元ネタに遡るために「ハイデガーと認知科学」に入っているヴァン・ゲルダーとクラークのそれぞれの論文を読むことにした。

これによって、「現れる存在」へのとっかかりも出来るだろう。A・クラークは過激な反表象主義を解毒しながらも環境との相互作用を重視するといった折衷主義によってヴァン・ゲルダーやAlva Noeに対して応答してきたことが分かってきた。

煮え切らないなとも思うけど、この態度にはかなり親近感を覚える。がゆえに眼を開かされるというかんじではないのだが…というほど読んでいるわけではないので、また読んでみることにしよう。

どうやったら神経科学で(計算主義的、統計的ではなく)力学系的であり得るのかということはずっと興味がある。

津田先生の新学術の前期に入れてもらったときにはそういう興味が大きかったけど、やっぱりわからなかった。 コヒーレンスを記録しても、それを条件Aと条件Bでさっ引いて有意差出しているならばそれは力学系的ではなくて、統計的な枠組みから出てないと思う。

2013/5/18

立命館のダン・ザハヴィ講演会行ったら収穫あるかもとか思っていたが、その日は大学院講義担当で、しかも翌日の子どもの運動会のためにお婆ちゃんが二人とも前日からはるばるやってくるという大変な日であることに気づいたので取りやめ。


お勧めエントリ

  • 細胞外電極はなにを見ているか(1) 20080727 (2) リニューアル版 20081107
  • 総説 長期記憶の脳内メカニズム 20100909
  • 駒場講義2013 「意識の科学的研究 - 盲視を起点に」20130626
  • 駒場講義2012レジメ 意識と注意の脳内メカニズム(1) 注意 20121010 (2) 意識 20121011
  • 視覚、注意、言語で3*2の背側、腹側経路説 20140119
  • 脳科学辞典の項目書いた 「盲視」 20130407
  • 脳科学辞典の項目書いた 「気づき」 20130228
  • 脳科学辞典の項目書いた 「サリエンシー」 20121224
  • 脳科学辞典の項目書いた 「マイクロサッケード」 20121227
  • 盲視でおこる「なにかあるかんじ」 20110126
  • DKL色空間についてまとめ 20090113
  • 科学基礎論学会 秋の研究例会 ワークショップ「意識の神経科学と神経現象学」レジメ 20131102
  • ギャラガー&ザハヴィ『現象学的な心』合評会レジメ 20130628
  • Marrのrepresentationとprocessをベイトソン流に解釈する (1) 20100317 (2) 20100317
  • 半側空間無視と同名半盲とは区別できるか?(1) 20080220 (2) 半側空間無視の原因部位は? 20080221
  • MarrのVisionの最初と最後だけを読む 20071213

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