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■ Varela "The Embodied Mind"

Varelaの"The Embodied Mind"の日本語訳(「身体化した心」)が出た。出版社は工作舎か、、、たぶん多くの人にニューエイジくさいものとみなされてしまうな。認知系の科学者は手にとらないのではないだろうか(生協にも無かったし)。そういう人たちにこそ読まれるべき本だと思うのだが。この本で述べている認知主義からコネクショニズムへの移動とそれらの問題点に関する議論は、大乗仏教のところを飛ばしてでも、読まれるべきだと思う。そして更なるポイントは、コネクショニズム的やり方でさえうまく行かない問題があり、ここにこそが意識の「ハードプロブレム」が関わってくるということだ。そういう意味で、チャーチランドや信原氏が認知主義の問題点をコネクショニズムで解決してさらに意識の問題も解決しようとするのに対してVarelaはそれの先を行っている。ただし、先へ行きすぎかもしれない。というか、Varelaの提出しているやり方(およびその後のneurophenomenology)が本当にうまくいくかは分からない。けれども、繰り返すが、認知系の科学者が今言った流れを押さえて読む意義のある本だと思う。
オートポイエーシスの考えは、相互作用する局所のエージェントが作り出す協同的創発的現象の事を指しているように誤解されることがあるが、それは一部であって、それにさらに「内部からの始点(現象学的な立場)」「実際に動き出すことで始まってしまう感じ(この言い方じゃまるで今西進化論だが)」が加わることが重要なのだ。「身体化した心」はいわば心的システムのオートポイエーシス的な扱い方を議論しているのだが、オートポイエーシスという言葉が指している絡み合った要素を解きほぐして、それを心の科学の歴史のコンテキストに関連付けている。さっき言った協同的創発的現象は心の科学で言えばコネクショニズム的考えのことだ。そういう意味では、この本ではもうオートポイエーシスという言葉を使う必要はないし、オートポイエーシスの中の核心部分、もしくはその怪しく謎めいた部分はenactionや縁起という概念を持ち出すあたりに形を変えて分かりやすく(そして批判もしやすく)現われている。「オートポイエーシス」を読んでちんぷんかんぷんだった人にも、「知恵の樹」を読んで部分部分は理解できても肝心の流れがよくわからなかったという人にも、「身体化した心」のメッセージはよく伝わるだろうと思う。
ちなみに前にも書いたが、清水博先生が「生命を捉え直す」を書いたときには、引き込みのような共同的創発現象を扱っていたわけだが、最新の本では、「場」という概念を使い、オートポイエーシスの核心部に近いことを言っている。コネクショニズムからenactionへの移動が見られるのだ。しかも清水博先生の本は西田哲学込みで、武術から身体性をからめて考える、というところまでそっくりだ(「身体化した心」でも西谷啓治が持ち出されている)。
なお、工作舎がニューエイジ系の本だけを出しているわけではないことはもちろん承知している。まあ、青土社から出れば「身体性」がどうの、という現代思想的な話が目立つのだろうし、産業図書から出れば地味な感じなわけで、どこの会社が出そうが余計なお世話で、日本語訳が出てよかった、と言うべきか。


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