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■ 「科学手品セット」などもうないし、なくてよかったんだ。

流水の中に白熱電球をそっと沈めて、ただ祈る。亀裂が入ったところで、時が止まり、空気が留まり、心臓が停まる。

水浸しのコンクリートの床にピアノが置いてあって、長靴とツナギで入り込んで、デッキブラシで床を掃除しなければならない。最悪なことに、床は傾いていて、ピアノのストッパーが壊れていて、ピアノがぐらぐら動くのを止めることが出来ない。塩素の臭い、水の臭い。ホワイトノイズが流されている。なんのために?

無謬性の誤謬が云々かんぬん。

押し寄せるのは、竜巻? 嵐? 雪崩? それともXXX? 言葉は失われたが、またあらためて分節し直されて別なところに生まれ落ちるだけなんだ。


思い立って、レイモンド・カーヴァーの「大聖堂」を借りてきた。表題作だけ読んだ。なんてことはない話だけど、そして主人公はまったく普通に、嫌なところもある人だけど、それゆえになんかいいかんじで終わるのが気に入った。原文でまた読んでみることにしよう。

ついでにカポーティの「クリスマスの思い出」も読む。これはなんども読んだが、今回は村上春樹訳のやつだ。「そして僕らは思い出すのだ、すべての鳥たちが南に渡ってしまったわけではないのだということを」 キタワー

原文では、"Here, there, a flash, a flutter, an ecstasy of shrillings remind us that not all the birds have flown south."というくだり。

Here, there, a flash, a flutter, an ecstasy of shrillings" ここの圧縮の具合ったらないわな。感涙する。「そこかしこで、何かがさっと前をよぎり、ぱたぱたっという音が聞こえ、感極まったような鋭い啼き声が響く。」

"As for me, I could leave the world with today in my eyes."


そういえばこのあいだの出張のとき、かわいそ犬3号と名付けたくなるようにのを見つけた。年老いて毛並みがぼさぼさになってしまうだけではない何かがあるんだろうと思うのだけど、何かは分からない。とにかくそれは私の自己憐憫回路を揺さぶるんだ。

そのような「何か」の正体など私の中にしかないのだろう。「世界を再魔術化する」ってのが俺の中での「脳内革命」でしかないのなら、そんなものは要らない、いや要るか。要ります、要ります。「科学手品セット」などもうないし、なくてよかったんだ。


ここまでエントリ書いてしばらく放置していた。そしたらあとで気付いたのだけど、まだ我が家には「科学手品セット」は捨てられずにとってあった。なんだろう? 砂浜から潮が引いてゆく感じだ。自分が9年前の自分と繋がっているのを感じる。こんど次男に「科学手品セット」を使って見せてやることにしよう。


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