「自転車置き場、イトーヨーカ堂、さっぽろ雪まつり」(さうして、このごろ2024年2月前半)

このブログ記事は良かった: 拝啓、松本人志様

これを見て思い出したけど、この人にとっての松本人志が、私にとっての北野武だった。小学校6年くらいで出会ったビートたけしは私の精神の形成に大きな影響を与えた。当たり前すぎて、はじめて言語化したかも。

昔の私は容赦ないツッコミと毒舌の芸風だった。それによる失言を重ねて痛い目にあって、けっきょく大学を卒業するくらいまでにそういうキャラからだんだん脱却していったのだけど。

その後北野武が映画監督になったり文化人枠になった頃、私はもう高校生くらいで、その影響を無意識化して忘れ去っていた。


(2/8) 自転車置き場までの道が雪に埋もれて、坂を乗り越えないとたどり着けなくなった。しばらくそのままなんとかしていたけど、そろそろ滑って転びそうなくらいの高低差になってきた。誰もやらないから自分でやるしかない。これが試される大地か。

そういうわけで意を決して道を作った。今週の最大の成果物です。


住んでる近くの歩道に積まれた雪。高さが3mくらいある。全ての雪を、生まれる前に消し去りたい。すべての宇宙、過去と未来の全ての雪を、この手で。



「イトーヨーカ堂が北海道から撤退」ってニュースを見てびっくりした。(サッポロビール園の隣りにある)アリオ札幌は2005年に開店して、まだそんなに古びてないのだけど。

調べてみたが、ショッピングモールが閉店するのではなくて、中に入っているスーパー部分が「ダイイチ」に入れ替わるということらしい。ダイイチならいいかも。ダイイチ八軒店はお惣菜が安くてけっこう重宝している。

これに関連して、すでにいくつか店が閉まってた:「「アリオ札幌」リニューアルに伴いテナント7店舗閉店、「ヨーカドー」は食品・日用品売り場のみに」


(2/9) さっぽろ雪まつり大通会場に行ってきた。風はないが気温は低くて、沢山の人が踏みしめた道がツルツルになってた。


今年の雪ミクのプロジェクションマッピングはイマイチ。雪像と連動した仕掛けがほとんどなかった。去年の様子はこちら

去年との違いといえば、昨年は30分に一回しか流れなかったのであまり人がいなかったけど、今回は5-10分に一回くらい流れていたので、けっこう人が滞留していた。


らきすた20周年にはびっくりした。立ち止まっている人はあまりいなかったが。アーリャさんが宣伝されているのは、なるほど旬だなと思った。


(2/13) 札幌は気温が10度を超えた。55年ぶりの記録的な気温とのこと。

自転車置き場までの道の雪が柔らかくなったチャンスに雪かきをしたのだけど、汗だくになった。

あと、道の雪が融けて柔らかくなっているので、自転車漕ぐのがたいへん。しまいには諦めて歩いた。


「給料はあなたの価値なのか」から「大腸菌の予測」まで徒然と考えてみた (20240922)

夏アニメで継続して観ているのは「逃げ若」「推しの子」「マケイン」「ロシデレ」まで。

秋アニメはいまのところ視聴予定は「リゼロ3期」だけで、「アオのハコ」「結婚するって、本当ですか」は1話の出来をみて考慮する。


「ふつうの軽音部」の38話で「バビルサの牙が折れた」ってのが繰り返されてて、なんか意味ありげだなと調べてみたら、バビルサってあれか、「牙が伸び続けると脳に刺さる」「性淘汰で牙が長ければ長いほど強い」とかでネットで話題になったアレか。「才能に溺れる」のメタファーに使われてそう。

wikipediaではそこまで書かれてないのだが、「牙は脆く、オス同士の闘争で使用されることはほとんどない」とかは面白い。


ブルスカに来てからはコミックやアニメを題材に語るようになった。文章修行の一環として(言い訳〜)。

Twitterで書いてたときは、学問的なことを書く本アカと、オタク語りを鍵付きアカで分けてた。

でもブルスカに移ってきたら、関係者はほぼ誰も見てないということが判明したので、2つに分かれていた人格を合体して書くようになったら、ほとんどオタク語りだけが占有するようになってしまったのだった。

結果としてザッカーバーグの「2つのアイデンティティを持つことは整合性の欠如の一例だ」を不本意ながら実践していることになった。


ザッカーバークの「2つのアイデンティティを持つことは整合性の欠如の一例だ」については2012年に「そんなのリア充の強者の論理だろ」という趣旨でブログ記事を書いてる。

今もその考えに変わりはないけど、こうして自分のブログを読み返してみると、コロンバイン高校銃乱射事件やスクールカーストが大きな影響を与えていたことがわかる。(当時すでに43歳だったんだけど。)


さいきん「給料はあなたの価値なのか――賃金と経済にまつわる神話を解く」 ジェイク・ローゼンフェルドを読んでる。

米国についての分析なんだけど、民主党も共和党も「良き仕事を取り戻す」(=自動車や鉄鋼などの製造業)を選挙民に訴えかけている、という話が第6章で取り上げられている。

  • 近年米国内に製造業が戻ってきたのは、中国などに作られた工場の人件費が高騰したから。
  • しかし米国内に戻ってきた製造業の給与は昔の水準には戻らない。
  • なぜなら機械化によって製造業における人件費は大幅に抑えられるようになったから。

こういったことが語られる。ここでの製造業での機械化というのが50年前とかの現象であるということは重要。50年前のことが解決せずに今の問題となっている。いまのAIによる社会変動でも同じことが起こるだろう。つまり、これから50年先になってもたぶん解決しない。


AIによって人件費が大幅に抑えられ、給与の不均衡はますます激化する未来が来るだろう。

よくある「そのようにしてあぶれた者はべつの職業に就くから問題なし」というネオリベ的言説は先述の製造業での機械化の問題を考えれば、正しくないと言えるだろう。

(そもそも社会構造の変化というマクロなものと、各個人のかけがえのない人生への影響というミクロなものを混ぜて語る詐術がここにはある。)

こういったネオリベ的言説を程度の差はあれ誰もが(自分も)受容している状況というのをなんとかしたい。この点で自分はマーク・フィッシャーの「資本主義リアリズム」に書かれている問題意識を共有している。

マーク・フィッシャーは「アシッド・コミュニズム」という概念を提出したけど、それを十分形にする前に自死してしまった。部分的に残された文章をいくつか読んでみたけど(たとえば序文)、評価可能な形にはなってないと思う。(もしそれが「60年代カウンターカルチャーからありうるべき未来を辿り直す」で要約できるのならば、少なくとも「反逆の神話」で提示された問題に応答できないとダメでしょう。)

でももしそれが「ネオリベ的価値観以外がありうると気づくためには、われわれの「現実」に対する見方のレベルから買えてゆく必要がある」ということならそれはわかるし、私自身が学問を通して目指していることでもある。


社会は力学系なのだから、だれか黒幕がいて制御しているわけでもない。かといってそのようなトップダウンでの制度設計や個人によるボトムアップの行動変容が無駄なわけではなく、それらによって社会の相転移は起こり得る。

そういう見方からすれば、社会科学的な意味での制度設計の提案自体は無駄とは言わないけど、小さな変更は力学系のflow fieldを変えない。つまり、いろいろやってもお決まりの状態へと回帰する。(これがXTCの"complicated game"の歌詞で書かれていることだ。先日のブログ記事20240911)

むしろ人間の「現実」感を変えることのほうが社会を変えるだろうし、その意味で「現実」感を変えるテクノロジーが重要だと思う。そこに自分も寄与できたらと考えている。とはいえそこで決定的となるのは、VRのようなデバイスではなくて、もっと予測不可能な別のものだろうと自分は想像している。

「VRで現実感を変える」って言葉には、ビジネスの文脈での「バックキャスティング」、そしてネオリベ的な「選択と集中」による決め打ちを感じてしまう。力学系的視点からは、もっともっと、予測つかないものになるほうに賭けておきたい。

2019年12月の段階で、だれもがその先にコロナ禍を想像していなかったように、そういう意味での、想像を超えた、しかし起きてしまえばそれは100年に一度、スペイン風邪以来で起こってもおかしくなかったもの、そういう「ブラックスワン」に来る方に自分は賭けておきたい。

ここで「賭ける」とは、ブラックスワンに頑強であるように準備するという意味で、これがタレブの「反脆弱性」で言わんとしていることになる。


「バックキャスティング」について補足しておく。バックキャスティングの定義である「目的のためにいまをデザインする」、これ自体は構成論的なアイデアであって、けっして悪くないはずだ。(「未来を予測する最善の方法は、それを発明することだ」by アラン・ケイ)

でもことビジネスの文脈で「バックキャスティング」と語られると、そんな予測できないものについてあたかも予測できるようにデザインするという考えが、ネオリベの最たるものである「選択と集中」というアイデアと同類になってしまう。このことがなんかおかしいと思ってるんだ。

いわば、バックキャスティングには半脆弱性を持たせる必要がある。


これと関連して先日飲み会で語った話題がある。「大腸菌は予測ができる」という論文(Science 2008)がある。

つまり、大腸菌は人間などの生き物の体内に入ると、環境温度が上がり、酸素濃度は低下する。このとき大腸菌は、環境温度の上昇から酸素濃度の低下を予測して、酸素を使った代謝の遺伝子発現を抑制する。それの証拠に「環境温度が上がると酸素濃度は低下する」という相関関係を崩した条件(たとえば「環境温度が上がると酸素濃度は上昇する」とか)で大腸菌を培養すると、大腸菌はそれに適応できる、つまり予測をしている、というわけだ。

この話の種明かしとしては、個々の大腸菌が予測をしているわけではなくて、集団としての大腸菌が選択されているからこういうことが起こるというわけだ。つまり、大腸菌の中には「環境温度が上がると酸素濃度は低下する」だけでなく、「環境温度が上がると酸素濃度は上昇する」ことが可能な状態を保持している個体もいて*、そういう個体が選択されたという話**。

(* この機構はエピジェネティックなものだと思うけど、そのあたりは自分は調べてない。)

(** この話はダニエル・デネットのkinds of mindで出てくる「ダーウィン型生物」の一例となっている。私の大学院講義「意識の科学入門」でも扱ってる。)

長々と大腸菌の話をしたのは、「どうして大腸菌はわざわざ「環境温度が上がったときに代謝を上昇させる機構」を保持していたのだろうか?」ということ。それはほとんどの環境で無意味な特性であって、実験室環境で不自然な状況を作ることで現れた特性だ。でも大腸菌はそれをわざわざ保持していた。これがタレブの言う「半脆弱性」の一種であり、生物が生物であるために必要な重要な要素なのではないか。

Varelaのオートポイエーシスの条件(生物学的自律性)にDiPaoloは「適応性」と「規範性」という2つの概念を付け加えたのだけど、ここでの「適応性」とはこういう「半脆弱性」を含むのではないか。

そうして考えてみると、「半脆弱性」というのは想定されていない外部からのアタックに対してなんとかもがく能力であり、もがいたうえで絶滅することもあるのだけど、生き延びることもある、そんな確実性はないなにかだ。(それは生きているものが不可避にさらされている、いつでも死にうるという状態precaliousnessを反映している。)

そしてそれは、Ross AshbyがHomeostatを作ったときに、感覚運動ループでは対処しきれない外部に対処するためにホメオスタシスによるリセット機構を作ったアイデアの源になっている。

(感覚器ではなく、体に物理的、科学的に影響を与える得体のしれない外部を「生命の危機」として扱う、これが我々が「情動」を持ち、理性以外の回路を使って予想外の状況に対処することのモデルとなっている。)


…とこういうことを今書いている本で書こうとしているのだけど、考えをまとめるために雑多なまま文章化してみた。雑多なままというところが重要なんだ。整理すると大事ななにかが消えてしまうので。

これらはぜんぶ繋がってるんだ。「3月のライオン」の中で主人公の桐山零が将棋のことと川本家のことを考えるうちに両方について頭脳がフル回転してゆくという描写がある。自分はあれにはなんか親近感というか、そうありたい気持ちと、じっさいそういうふうにやってた気がするという記憶とか、そういうものが駆動されてくる。

つまり、自分の中では、ネオリベ的なものへの反感と研究の動機がつながってエンジンのように働いている。


意図せずどんどん話が広がったけど、話を広げるのは意図して行った。今回は下書きをせずにそのまま書き続けた。それを整理して、今回のブログ記事にしてみた。

マーク・フィッシャーが映画とテクノでやるように、わたしもオタクカルチャーでやってみたい。でもありがちなサブカル語りにしたいわけでもない。そういう文体を作れたらいいのだけど、それって簡単じゃないな。


拾遺: 力学系云々という言説についても自分史とつながっている。浪人生の頃に読んだ岸田秀によって相対主義のドツボに長い間ハマっていた。学部生の頃に読んだベイトソンがそれと合体して、「システムにおいて無力な私」というという構造主義の相対主義的理解に留まっていた。だから、そのシステムのツボを付くことで相転移が起こり得るという力学系的視点の獲得には救いがあった。

じつのところベイトソンにはシステムのメタレベルを上がり下がりすることによってそういうドツボからの解決法が提示されていたのだけど、それを理解できたのは、オートポイエーシスを理解できた後だったと思う。そしてそれが、1998年くらいにブログを書き始めたころのことだった。


XTCについて + Zappaについて

XTCについて

(20240216) XTCのAndy Partridgeがこれまでの曲についてギターを弾きながら解説してくれるインタビュー動画。なにもかもすごいけど、その4にわかりやすいところがあったので紹介。

(いくつか観たカバーバンドが)みんな間違えてるって言って紹介したのが、"The Ballad of Peter Pumpkinhead"のヴァースのコード。ここはD-Gだと思われているけど、じつはGではなくてG69 (32223X)だと。(Andyは自分で発明したつもりだったけど、後日ブラジル音楽でよく使われるコードであることを知ったという。

Respectable Streetのヴァースの2つのコードも解説されてる。これもB-C#7と解釈されているかと思うが、実際に弾いているのは

79987X- 98907X
B - C?(1-3-b5-b7-11)

という謎コードだそうな。

そういうわけで急にXTC熱が復活したので、"Complicated Game"のコードを拾ってみた。

XX5033 G(-3)
XX4032 GM7/F#(-3)
XX4532 D7
XX445X Bsus4(-3)
XX444X B
XX555X C
XX777X D
XX4032 GM7/F#(-3)
XX5033 G(-3)

Andyは3弦の開放弦gを鳴らすのが好き、3度を削って調性を曖昧にしてる、から推定するとたぶんこんな感じ。C-Dのところでは(曲の全体通して)意図的にベースが鳴ってないので、C/B-D/Bと解釈するのがよさそう。

"Complicated Game"はアルバム"Drums And Wires"の最後の曲。はじめはギター一本と病んでるボソボソ声でスタートするのだけど、最後のヴァースでは絶叫するボーカルにディレイを掛けてぐちゃぐちゃになってフェードアウトする。どうするんだこれって雰囲気で終わるので、この曲をアルバムに配置するならたしかに最後に置くしかない。

世界は複雑系であり、自分の意志でなんとかしようとしても世界の構造の中で毎度の結末へと引きずり込まれる、という正しくも悲しい歌詞に打たれる。

この曲を歌いたいんだけど、ギター弾き語りにはまったく向いてない。スマホ持ち込みでカラオケルームで絶叫するか。

アンディ・パートリッジのインタビューを読むと、彼が音-視覚の共感覚を持っているという話が出てくる。

(作曲で歌詞と曲どっちが先かと聞かれて)「いや、パターンはない(略) ただコードをいじっているだけで、海とか雲とか箱とか、何かを暗示することもある。その点に関しては、私はちょっと共感覚的なんだ。音を聞いて、"おお、これは霧のようだ "とか、"11月の雨の日のようだ "とか思うことがある。多くの場合、歌詞が生まれるのは、そのコードや和音の共感覚的な性質、つまりそのコードが描いている絵を説明しようとしているからなんだ。
「イースター・シアター」がそうだった。土のようなコード、茶色く濁った、上昇するようなコードが、「これは何かが地面を突き上げるような音だ。
楽器の音色が何かを暗示することもある。"Chalkhills and Children "のオルガンの音色のように。冒頭の小さな鍵盤の音は中世的で土俗的な響きだと思ったが、その前の穏やかな高音の和音はまるで浮遊しているような響きで、大地の上を漂っているようだった。いつの間にか、この曲が何について歌っているのかを推論しようとする私の精神的な把握が、歌詞になっていたのだ。」

Zappaについて

上記のAndy Partridgeインタビュー動画の聞き手のChanan Hanspalさん。この人のYoutubeチャンネルには膨大な動画があって、とくにザッパへの言及がすごい。

でもその内容が現代音楽的な話なので、ぜんぜんついていけない。(「ピッチクラス・セット理論」というのに言及していて、このへんから調べるとよさそうだが。)

いくつか観てたら、ザッパの音楽の分析で博士論文を書いたって言ってた。

別の人によるこの動画は私にも分かる内容だった: "Frank Zappa's Favorite Chord Progression"

ザッパの典型的コード進行として、Black Napkins進行というのがあると。

C#m7 (C# dorian) - DM7 (D lydian)

これはなるほどと思った。ザッパのギターソロとかメロディーは、あるときはドリアンで、あるときはリディアンだったりするのは別資料で読んでた。コード進行でスイッチしてたのか。動画では"modal center switching"と表現している。


「スカスカおせち、若者のすべて、Ulrich Schnauss」(さうして、このごろ2024年1月)

(2024/1/3) 「冷凍ケーキ崩壊とかで騒いでいたのが昔のことのようだ」みたいな表現を見て、なんかこれと似た感慨を覚えたことがあるぞと記憶を辿った。そしたらあれだ、「スカスカおせち事件」だ。

あれは2011年の正月用のおせちの話で、始まったばかりのフラッシュマーケティングへの疑念までつながってどえらく炎上していたものだった。でもそのあとの東日本大震災がやってきた。あのときに、似たような感慨をTwitterに書き連ねた、もしくはだれかが書いたのを見た記憶がある。


「合唱曲「COSMOS」をシューゲイザーにしてみた」 これ完璧なバランス、完璧なブレンドで成立している。革命的だわ。コメント欄にあること以上のことは言えないが、先日見つけてからちょくちょく聴いてる。


Allen Instituteのマウス脳論文がNature Articleで9連報。なんか感慨深いな。いまから脳の研究をしたいという人の多くはまずこのデータを弄るという発想になるだろう。

「理系の人がよく言う「何が嬉しいかというと」」 自分はこの節回しまったく使ったことがない。「理系」というよりは数学を(モデリングなどで)ヘビーに使う人、「数物系、情報系、工学系の人」が使うイメージかな。


「若者のすべて」を歌っていて気づいたのだけど、「夕方5時のチャイムが〜」の部分のメロディーって、歌詞に合わせて夕方っぽい感じがする。もっと具体的に言えば、小学校で放課後に「下校の時間になりました。」って放送されるときに流れる「遠き山に日は落ちて」のメロディーっぽいというか。

ここまで書いてから、検算というか、ググってみた。そしたら、もっと深い考察を見つけた。すべての人の心に響く「志村正彦」が残した音色~思い出と共鳴し日常に溶け込む「チャイム音」~


「「ポランニーのパラドックス」という有名な説があります。これは哲学者マイケル・ポランニーの言葉をもとに提唱されたもの」

ポラニーは「パラドックス」みたいな言い方はしてなかったのでは?と調べてみたら、経済学者デヴィッド・オーターが2014年の論文で使って定着した模様 。

  • 京大総長卒業式 式辞 https://www.kyoto-u.ac.jp/ja/about/president/speech/2021/20220324-1
  • Itmediaブログ https://blogs.itmedia.co.jp/borg7of9/2015/09/ai.html

糸井重里氏の昔のツイートが上がってきている。学生運動から転向して80年代にスターになった人の言葉と考えると、よく理解できる。そういう文脈において、自分はこれに心情的に同調できる。

とはいえ、こういう考え方は、現実の変革への抵抗勢力になるのでは、という懸念もわかる。

だからもし自分用に書き換えるなら、人様にもの申す形にならないようにするだろう。「自分が発言するときは、スキャンダラスでないように、より脅かしてないように、より正義を語らないように、より失礼でないように、と表現を選びます」ってかんじで。


ヴィレヴァンが知らぬ間にマズいことになってた

ヴィレッジヴァンガードは岡崎に路面店があって、90年代にはよく夜に車で行ったものだった。「クール・クールLSD交感テスト」(トム・ウルフ著)とかを立ち読みしていたはずだ。イオンモールとかに出店しはじめたあたりから行かなくなった。

昔の自分のツイートを漁ってみたら、10年以上前に言及していた。書籍の顔ぶれが変わらないのが、自分にとっては致命的だった。これ以降ヴィレヴァンには入店したことがないので、最近の状況はわからないけど。


Ulrich Schnauss、いいなあ。"Goodbye"のPVを見てハマった。Youtube Musicに入っているので全アルバム聴いてるところ。

「シューゲイズ/エレクトロニカ」とか書かれてるけど、あまりシューゲは感じない。まあそういう分類は置いたうえで、これはいい。発見するのが15年遅れたけど。


ザ・キンクス 榎本俊二 第10話が「ABCの歌を歌わずに済ます」という回だった。

自分の場合はそこは「ABCの歌」ではなくて、Soft Machineの"A Concise British Alphabet part 1"が頭の中に流れる。そしてそのまま"Hibou, Anemone and Bear"の7拍子になだれ込む。(7拍子、はより正確には(3+3+3+5)/8の14/8拍子)


ナゾロジーの「私の赤とあなたの赤は違う色?」の記事はよくない(のでリンクも貼らない)。

元論文は、レチノイン酸によってL錐体とM錐体の分化が起こることをオルガノイドで明らかにした(図3)、そしてレチノイン酸シグナル系の多様性がL錐体/M錐体比率の多様性と相関していることを示した(図4)、というもの。

L錐体/M錐体比率に多様性があるというのは以前の報告にある。(JNS2005の図4) この図は印象深いので、わたしも自分の講義「意識の科学入門」で使ってる。


もし「スキップとローファー」が実写ドラマ化されて、あの話のキモである繊細な描写がすっかり削られて、「地味な私がイケメンに気に入られてドッキドキ」みたいな話に改変されたら?、とか要らん想像をした。


実体vsプロセス、お話と力学系

(20240117) 「ティンバーゲンの4つの「なぜ」」の図式に基づけば、NCC的な説明(「脳活動が因果的に意識経験を生み出す」)は「メカニズム」による説明であり、エナクティヴィズム的な説明は「系統発生」による説明である。と以前議論して、「我々が生きるためには酸素が必要だが、酸素は生命の説明にとってはただの前提条件であり、トリヴィアなものだ」という議論でsensorimotor contingencyを酸素と同一視するような議論に反論したことがある。

それとは別の文脈で考えていたのだけど、おばあさん細胞の活動を説明するという観点では、「おばあさんという視覚刺激によっておばあさん細胞が活動した」という因果的説明は間接的だ。よりもっと直接的な要因がシナプス入力であり、HH方程式という微分方程式で説明される。こういうふうに考えれば、脳の情報処理的な説明と力学系的な説明との違いを明確にできて、「因果」という概念を追い出すことができる。(微分方程式に因果はない)

あとで清書するけど、とりあえず忘れないように文脈をつけておくと、 感覚運動随伴性説SMCでは「agentが外界に行動によって介入してそれによって間隔入力が変わるというループを形成した経験が知覚経験には必須」と考えるが、それは「生命にとって酸素が必要なのと同じで、知覚経験の必要条件に過ぎない。知覚経験の説明に必要なのは、そのときどのような脳状態になっていたかというようなメカニズム的説明だ」という議論があった。それに対して、SMC(というよりもエナクティヴィズム)は「系統発生、発達」的な説明をしている、と議論した。

では両者のどっちが重要なのかという問題だが、それについては深層学習を取り上げて議論した。

つまり、AIがどうやって視覚刺激を弁別しているかを説明するのに、メカニズム的説明では、それは単に個々のニューロンがシナプスからの入力から出力を計算しているだけ、としか言えない。

AIの能力を説明するためには「事前にどうやって学習しているか、シナプス重みを変化させて収束させているか」が大事であって、AIの能力として説明するべきことは実際の能力を発揮する前の段階にある。

そういうわけで、オンラインのメカニズム的説明を重視するというのはわれわれ神経科学者にありがちな認知バイアスでは、と議論した。

そうしてみると「生命にとって酸素が必要条件なのはトリヴィアルなことだ」という議論も同じように見直すことができる。つまり、「生命に大事なのはDNA-RNA-タンパク質という信号伝達である」というようなメカニズム的な説明に対して、酸素、というよりも酸素を含んだ代謝のネットワークというものの成立こそが生命によって必須であり、それはけっしてトリヴィアルな話ではない。マトゥラーナ、ヴァレラのオートポイエーシスでの生命の定義では「遺伝、複製、生殖」が入っていなくて、むしろ代謝と細胞壁を本質と置いているのだけど、こうしてみると(オートポイエーシスとエナクティヴィズムの間で)おなじく筋が通っているなと思う。

ここでは同じ発想が流れている。つまり、実体vsプロセス、ということ。意識について「おばあさん細胞」を重視し、生命について「DNA」を重視する観点は、意識や生命についてなにか実体を見つけたい(=還元主義)という発想を反映している。それにたいして意識について「感覚運動ループ」を重視し、生命について「代謝」を重視する観点は、意識や生命についてある種のプロセスとして捉えたいという発想を反映している。

これはいま書いてる本のどこかに使えそうだ。まあ、いままで書いてきたことと代わり映えはしないかもしれないけど、ひさびさに文章を書くモティベーションが出てきた。こうしてなんとかリハビリしてゆきたい。

以前はこういう実体vsプロセス、みたいな話まで見えてきたので、エナクティヴィズムのようにプロセス側に逆張りするだけでは不十分であって、実体とプロセスがお互いがお互いを必要とする方な形で離れがたく結びついていることをどうやって扱えばよいか、という問題意識に至っていた。そこからが本題なのだけど。

つまり、いま書いている本でも、ひととおりエナクティヴィズムの説明を書いたところで終わりではつまらないと思っていて(そういう本はまだないので意義はあるのだけど)、ではそれを実体的、還元主義的な発想とどう繋げてゆくかというのが問題で、そこで(因果に依存しない)力学系的な説明の出番となる。それはAIが出してくる結果が説明不可能であり端的にそうなっているとしかいえない、というのとたぶん通底している。「説明」を人間的な因果に訴えたお話ではなくて、微分方程式やAIのように端的にそうなっているとしか言えないような形のものに拡張する必要がある。

それでも人間には「お話」が必要だというジレンマがあって、われわれはそのふたつを行き来できるようなリテラシーを身につける必要がある、というかこれからのAI時代にそういうリテラシーを身につけるようになることで、われわれの「説明」観は変わり、「現実」観も変わる、みたいにまとめられるか。

いま「量子力学は、本当は量子の話ではない : 「奇妙な」解釈からの脱却を探る / フィリップ・ボール著」を読んでいるのだけど(いや読んでない、積んでるだけ)、ここでも量子物理での奇妙な解釈(「重ね合わせ」とか「シュレディンガーの猫」とか)を廃して、「黙って計算せよ」という立場をひたすら保持している。(いやちょっとめくっただけなのでわからんけど、骨子はこういう話と推察。) ここでも「端的にそうなっているとしか言いようがないが、計算すれば予想に使える」という立場なんだと思う。物理帝国主義に追従する必要はないけど、「端的にそうなっているとしか言いようがない」という可能性にオープンであるほうがよい。


お勧めエントリ

  • 細胞外電極はなにを見ているか(1) 20080727 (2) リニューアル版 20081107
  • 総説 長期記憶の脳内メカニズム 20100909
  • 駒場講義2013 「意識の科学的研究 - 盲視を起点に」20130626
  • 駒場講義2012レジメ 意識と注意の脳内メカニズム(1) 注意 20121010 (2) 意識 20121011
  • 視覚、注意、言語で3*2の背側、腹側経路説 20140119
  • 脳科学辞典の項目書いた 「盲視」 20130407
  • 脳科学辞典の項目書いた 「気づき」 20130228
  • 脳科学辞典の項目書いた 「サリエンシー」 20121224
  • 脳科学辞典の項目書いた 「マイクロサッケード」 20121227
  • 盲視でおこる「なにかあるかんじ」 20110126
  • DKL色空間についてまとめ 20090113
  • 科学基礎論学会 秋の研究例会 ワークショップ「意識の神経科学と神経現象学」レジメ 20131102
  • ギャラガー&ザハヴィ『現象学的な心』合評会レジメ 20130628
  • Marrのrepresentationとprocessをベイトソン流に解釈する (1) 20100317 (2) 20100317
  • 半側空間無視と同名半盲とは区別できるか?(1) 20080220 (2) 半側空間無視の原因部位は? 20080221
  • MarrのVisionの最初と最後だけを読む 20071213

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