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■ 男性同士のケア、セルフネグレクト、サードプレイスあたりの話題 (2024年5月)
(20240524) 桜庭一樹による「『ライ麦畑でつかまえて』を〝男性の相互ケア〟や〝弱者男性〟というキーワードで読んだ話」
これは納得いった。「ライ麦畑」はホールデンがなにかに負け続けて彷徨う話なのだけど、そのなにかの部分を掘り下げるのに有用な視点だと思った。桜庭一樹はそれを「深刻な傷を負った男性が他者からケアされないまま都会を彷徨う」お話として読んでいる。
この議論はけっして現在の価値観で過去の小説を断罪する形にはなってないと思う。当時あったこととして描写されたことの中にも、現在抱えられているしんどさと同質のものがあることを発見した、ということであって。
ここで出てくる「マニック・ピクシー・ドリーム・ガール」は、はじめは、物語に都合のよいキャラ造形に潜む性差別を指摘するために作られた語だった。しかしそれはいつしか拡大解釈されて、作者がキャラに込めた個性を塗りつぶして、あるカテゴリーに押し込める侮蔑語と化してしまった。そういう経緯がwikipediaに書かれている。
この語を提唱した人はその後に撤回しているんだけど、その後も普通に使用されているみたい。この語を知ったソースも2023年のnoteだったし。
「吉田豪が「吉田豪」になる前から遊んでいた専門学校時代の仲間のような人が友達であって、「吉田豪」として出会った人は仲良くなっても、仲が良い知り合いなのだろう。」
自分もこの感覚はわかる。仕事の付き合いで仲のいい人はいるけど、それを友達とは言いにくい。東京を離れてからは、仕事に関連しない仲間作り(サードプレイス)に労力をかけてこなかったので、自分は岡崎にも札幌にも友達がひとりもいない。
「男性同士のケア」(トーマス・ジョイナー)の問題を考えることはあるけど、正直興味ないというか、軽いセルフネグレクトをしている自覚はある。
仕事の付き合いで気の合う仲のいい人との関係は、しんどい状況の中を生き延びてきた「戦友」という感覚であって、たまに会って話をすれば、そういうかんじでのつながりを感じながら話をすることはできて、それはとても大切な機会だ。そういう人がいないわけじゃあない。だから「私には友達がいない」という言葉も、それはそれで強すぎる。
「男性同士のケア」について道徳的動物日記が取り上げていた"Lonely at the Top"が邦訳されたらしい。「男はなぜ孤独死するのか トーマス・ジョイナー」 これは読もうと思う。来世で。