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■ Alva NoëとかEvan Thompsonとか。ここまで。

2月に書いたまま放置してたやつを貼ります。もともと060220のつづきのつもりで書いていた(だからタイトルがそんな感じ)のだけれど、なんだかわからなくなってきてます。


そろそろとりとめなくなってきたので、このへんでいったん締めます。

本棚を整理していたら入不二基義氏の「qualiaの不在」を印刷して真っ黒に書き込みを入れたやつが出てきました。これをまとめておくのもそのうちやらなくては。(なお、この論文は以前は山口大学のサイトにありましたが、現在は心脳問題rfcからのみオンラインでアクセス可能です。) 話のもっていき方(あるアポリアを持ってきて、それの解決しようとする二つのやり方がじつはお互いを前提としていることを明らかにして、問題の捉え直しをする)は「相対主義の極北」と共通しているようなので読んでおきたいのだけれど、ま、ちとこれは10年たってもむりか。

現象学はわかるようになりたいなあ。これはかなり優先度が高いです。でも、フッサールを読まずにメロポンだけ読もうなんてバカにされるだけなんだろうなあ。途中で止まってる「行動の構造」。

大森荘蔵も腰を据えて読んでられないから、「流れとよどみ――哲学断章」で「心身問題、その一答案」だけ読んでみたりとか。Causal relation (「脳が心を生み出す」や「脳が外界を投射する」)ではなくて、重ね合わせ、「即ち」の関係 (リンゴが見える、即ち脳と環境とがある記述可能な関係にある、とか)なんだと、たしかにそうだ。しかしなあ: 前にトレーニングコースに来てた学生さんたちと飲んで話したときに、心身問題はWittgensteinで終わっているんだ(疑似問題なのだ)というふうに主張してた哲学科出身の方がいたんだけれど、そういう意味では心身問題はカントの第三アンチノミーで疑似問題であることがわかっているということなのでしょう(元ネタ: 「心脳問題 - 「脳の世紀」を生き抜く」 山本貴光、吉川浩満)。でも、「心脳問題 - 「脳の世紀」を生き抜く」 のいいところはそのような疑似問題が繰り返し問題として捉え直されつづける、「回帰する」点に注目してるところです。重ね合わせ、による解消法もそのときには納得はいくんだけれども、問題は回帰する。これってなんなんだろう、と思います。しかしそれにしても、わたしはカントを読むところまでは一生たどり着けないだろうなあ。

「身心問題」廣松 渉を読んでたときも似たようなことがありました。ライルによる「カテゴリミステイク」の議論を持ってきて、いっぽうで現在の心の哲学者たちはその辺がわかってないのではないか、とデネットの文章を引いて、「議論のレベルはこれでだいたいわかるであろう」なんて書いてます。ですけどね、デネットはライルの弟子ですよ! そんなことわかってないわけないじゃん、……たぶん。

ともあれ、現代の意識論をやってる人は、そういうところからふたたび議論を起こそうとする、「回帰する問題」をやってる人たちなんだと思う。だからこそ、arational agentさんの文章にもあったように、分析哲学者が扱うのは「意識を現在手持ちの自然科学的手法や理論装置で説明できる見込みがあるかというメタ的なテーマ」だったりするわけで。……ま、だからといって、カントやウィトゲンシュタインやライルを読まなくっていいって話じゃないわけだけど、すべてをやることは無理だ。

こっち系の話はやりたいことも書きたいこともいろいろあるのだけれど、と に か く じ か ん がー た り な い(「すばらしい日々」のメロディーで)。論文書きしながらrecordingの準備してるところですよ、これで。


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