« Alva NoëとかEvan Thompsonとか。 | 最新のページに戻る | 今週のF1000(1) »

■ Alva NoëとかEvan Thompsonとか。つづき。

前回のエントリの続き。そういうわけで、いろいろ読まなきゃなあ、と思いつつもなかなか進まない。

郡司 ペギオ‐幸夫氏の「原生計算と存在論的観測―生命と時間、そして原生」もぴらぴら読んでます。私にとっては、とにかく第2章(「オートポイエシス―認識論的観測から存在論的観測への萌芽」)を消化できるかどうかです。なにしろ、私はオートポイエーシスという概念から心脳問題に入ったもんで。言い換えれば、それまで素朴な意味での心脳同一説かよく言って創発説の位置にいた私は、オートポイエーシスという概念を知ったことで心脳問題に切り込める余地があると考えたのですから。ともあれ、字面だけならもうこの章までは読んだのだけれども、消化しきれてません。半分くらいはわかる。

オートポイエーシスが問題を抱えてる、という指摘はよくわかる。それはオートポイエーシスが取った視点の位置と記述/観察との相容れなさという、この概念そのものに関わっているというのも納得がいきます。「オートポイエーシス」の過去ログ説明のところでも書いたけれども、オートポイエーシスが自己組織化理論とかの影響でなにかを定式化しようとしつつそれがうまくいかない、という問題を抱えていた、というとらえ方に通底していると思うのです。河本英夫氏はそのへんの問題を回避するためにオートポイエーシスをある種の「行為論」として扱う方向に話を展開させた。……ルーマンのことは知りません。

Varela自身はといえば、そのような袋小路から神経科学の方向に舵を切って、enactionと言ったりneurophenomenologyと言ったりしてきたわけです。そしてそれをNoëやThompsonは継承しています。だからここで問題とされていることはNoëの議論ともどっかでつながってくるだろうと予想しているのです。つまり、"enaction"の概念で言われていることは認識論的観測から存在論的観測へ、というスローガンには対応してないか、「記述の地平」から「行為者を構成」への移動を目指してはいないか、と。

んで、この2章ですが、そのへんの視点の問題にかんしては明確に書かれていて素晴らしいです。「外部からの決定不能性を契機として、内部による決定、システム自身による境界決定が結論づけられる」p.36 あたりとか。わたしは、境界を決定するのは内部だけれど、その境界を観察するのは産生プロセスの循環を見渡せる外部だけだ、という理解あたりで満足していたから。やっぱクリプキとか読まないと無理か……

しかし、オートポイエーシス自体に関してだけは原著にあたってそれなりに読んできた私からしてもオートポイエーシスに関する記述はかなり飛ばしているという印象です。たとえば、あそこに書かれている記述だけで、「構造的カップリング」の概念がオートポイエティックなシステムに接ぎ木されてゆく、というような言い方を理解できるとはとても思えません(オートポイエーシスは構造的カップリングの概念がないとほとんど意味をなさないものだし…)。ということは、ほかの事項(たとえば存在論的観測というときの「存在論」とか)でもかなりすっ飛ばしているであろうことが予想されます。

でも、ここでの「存在論的観測」が消化できないとこの章(オートポイエーシスは認識論的観測から存在論的観測へ向かおうとする萌芽は見られたが、けっきょくは認識論的観測でしかありえない)を読めたことにならないと思ってるのです。ま、第3章までを繰り返し読んでゆく予定です。

まだつづきます。じぶんでもびっくり。


お勧めエントリ


月別過去ログ