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■ 「天きりん、ドゥイノの悲歌、禅とオートバイ修理技術」(さうして、このごろ2024年8月)
「公で活動している人の名や作者名」の呼称問題について、自分はどうしているか振り返ってみた。
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- 批評的に作品に言及する場合は、たとえば「麻枝准のONE担当キャラクター」みたいに呼び捨てにしているかな。
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- 一方で、有名人の言動に言及する場合は「氏」を付けるようにしてるかな。「アジカン後藤氏のnoteの記事」みたいなかんじで。
要は1)の主題は作品で、2)の主題は有名人なので。じつのところその境界は曖昧で、意識して使い分けてたわけではないけど、いまから振り返ってみるとだいたいそんなかんじになっているように思う。
ゲームクリエーターに言及するときは、シナリオ担当はさんづけ、イラストレーターは呼び捨てにする傾向があることにも気づいた。これもたぶん同じルールを反映しているのだと思う。
つまり、イラストレーターの言動にコメントすることはほとんどなくて、作品にコメントしてる。いっぽうでシナリオ担当に言及する場合は、その発言にコメントしていることが多いから。
こう振り返ってみると、それなりに一貫している気がしてきた。
札幌市民なのでプロ野球はファイターズを応援することにしてる。でも勝敗で一喜一憂したくないのでyoutubeのパテレしか観てない。そうすると、清宮幸太郎はいつもホームラン打ってるし、万波中正はいつもレーザービームで刺してるし、伊藤大海はいつもスローカーブを投げてる。活躍しているときしか観てないので、精神衛生上良い。ファイターズがいま何位かは知らない。
周東佑京はいつもファインプレーして盗塁決めてるし、甲斐拓也はいつも二盗を刺してる。
大谷翔平はspotvnowでしか観てないので、いつもホームラン打ってるし、盗塁成功させてる。いつのまにか3割り切ってるの見たときはさすがに驚いたけど。
伊藤大海は、札幌ドームではじめて観たファイターズ戦(2021年3月)のときにプロ初登板だったので、印象深い。あの時点でドラフト1位で期待されてはいたけど、まだ将来どうなるかわからない状態だったので。
リーガルリリー 9/7(土) cube garden これ行くか。とりあえず最近のセトリを作って聴き込んでみる。「天きりん」「アルケミラ」「リッケンバッカー」「1997」「キラキラの灰」は現時点ですでに好き。
ところで「天きりん」ってなんだろうと思ってググってみたら、「銀河鉄道の夜」の5章で出てくる「天気輪」が引っかかってきた。
「天気輪」が具体的に何を指しているかは不明なようだけど、「銀河鉄道の夜」の本文を見る限り、空に見える、なんらかの天文現象であるように読める。
Wikipediaに項目もある。ここでも「天気輪」が「きりん座」を指すと考え、「天気輪をテンキリン=天のキリンと解釈する」という解釈があるようだ。
そうやってググっている過程で、詩人の天沢退二郎が宮澤賢治作品の編著や評論をしているという記載を見つけた。あれ?そういえばこの人は「光車よ、まわれ!」の作者だっけ?と調べてみたら正解。
そういえば札幌に引っ越してきてからこの本を開いた記憶がないな、と引っ越し後未整理の段ボール箱を開けてみたら、文庫本(ポプラ文庫ピュアフル版)が出てきた。そういうわけで、今晩は寝る前にこの本を再読しようと思う。
ついでにその段ボールの中身を整理していたら、「ドゥイノの悲歌 岩波文庫 (手塚富雄訳)」の旧版(1986年、24刷)が出てきた。全編に書き込みが入れてあって、長い名詞句を区切る作業とかをしていた形跡がある。
この間ブックオフで買った「ドゥイノの悲歌 岩波文庫」はこれを改版したもので、活字や紙質は良くなったが、内容にはいっさい更新がない。
そういうわけで、旧版を持っておく意義もとくにないのだが、捨てるにしのびなく、本棚に2つの本を並べておいた。
この手塚富雄による訳では、二人称が「おんみ」なのが古臭すぎて耐え難い。たとえば、第6悲歌で(いちじくの樹への呼びかけで)「いかにおんみは花期をほとんど飛び越えて、遅疑することなく決意した果実のなかへ(…)、おんみの清純な秘密を凝集することか」とか。
これが「新訳リルケ詩集 富岡 近雄 (翻訳) 出版社: 郁文堂 (2003/6/1)」ではこうなる。「おまえは 花期をほとんど完全に飛び超して、早々に結実を決意した果実の中へおまえの純粋な秘密を押し入れる」
以前ブログ記事を書いたとき対訳も作ってた。
第八悲歌冒頭: あらゆる眼で生き物は Mit allen Augen sieht die Kreatur 聞かれた世界を見ている。ただ私たちの眼だけは das Offene. Nur unsre Augen sind 裏返しになっているかのようだ、そして生き物をぐるりと取り巻いて wie umgekehrt und ganz um sie gestellt 罠となり、その自由な出口を取り囲む。 als Fallen, rings um ihren freien Ausgang.
こちらのブログに、リルケによるこの詩の解説の抜粋がある。こことか重要:
もしも人々が、死や来世、永遠などのカトリック的認識に基づいて「悲歌」を理解しようとする誤りを犯すならば、完全にそれらの結論から遠ざかってしまうでしょう(…)「悲歌」の天使は、キリスト教の天国の天使とは何の関係もありません。
「悲歌」の天使にとっては、過ぎ去った時代の塔や宮殿は、ずっと昔からすでに見えなくなっているがゆえに「存在」している(…)まだ見えるものと関係している私たち(…)にとっては、天使は「恐ろしいもの」なのです。
「mond」での応答で「禅とオートバイ修理技術」に言及しているのを見つけた。
ここで、科学とは実験という目に見える部分だけではなく、仮説と検証のループを回すという目に見えない部分も含めたプロセスである、という引用をしている。ChatGPTが返してくれるのは、この意味で目に見える部分であるということで100%同意した。今後はAIが返してくるものが正しいかどうかを判定するリテラシーが重要となるので、格差はより開く方向に進むと思う。
なんか「禅とオートバイ修理技術」を読み直してみたくなって本を開いてみたら、折り目がついてる。ここが気に入ったようだ: (文庫版下巻p.208)
「コンピューター回路の電源は、1か0しか示さないとくり返し言われてきたが、そんな馬鹿げた話があるものか!…電源を切ったとき…回路は「無」の状態にある。…1とか0では意味をなさない不確定の状態にある。電圧計の表示を見れば、多くの場合、"floating ground" (グラウンドから浮いてる状態)の特性を示している。…つまり、1と0の状態がすべてを包含するというコンテクストよりも、電源を切った状態はもっと大きなコンテクストの一部となっているのである」
「…実験に携わる科学者は、実験計画の中に込められたイエス・ノーの問題に対して、結果的に「無」という答えがもたらされることが頻繁にあることをよく知っている。…「無」という答えをもたらした実験を、このように低く評価するのは妥当性を欠いている。「無」という答えを得たことはきわめて重要なことなのだ。それは、自然が孕む答えから見れば、問題のコンテクストがあまりに狭すぎるので、拡張すべきだと、科学者に向かって語りかけているのである。」
自分はこういう設定された世界(計算のために1と0のみで閉じた世界)の外側がある、という話が大好きなのだけど、それが科学の実践にまで広げていて、とてもよい。
増田経由で「さまざまな職業が社会にもたらす真の価値を計算する」を読んだ。
エッセンシャルワーカーやケアに関わる人の給料が低い問題はここで言う「社会にもたらした価値」の評価が解決の道となりそうだ。
鈴木健氏のPICSYはまさにこういう意味で、個人間のネットワークが他者を含めてどういう価値を生み出したかを計算してくれるかもしれない。
自分事として捉えるならば、教員は人材を輩出することで社会に価値を生む。だからこれはポジショントークだ。だが、例えば悪をなす人間を輩出すると、その罪が経済的損失として自分にも降りかかることになる。
「給料はあなたの価値なのか―賃金と経済にまつわる神話を解く」ジェイク・ローゼンフェルド こちらの本も読みたい。明日札幌市立図書館行ってくる。
ただし、この書評によると、対策の部分は対症療法的で、たいしたこと言ってなさそう。そこは期待してない。
それよか「なめらかな社会とその敵」のPICSYに興味がある。あれは終わってない(始まってもいない)ので、社会変革のための未来の技術として考えつづける価値はあると思った。
PICSYは貨幣制度だけど、本丸は分配なので、ほかの道がないか考える意義はあるかも。
「なめ敵」のレビューから。
「オートポイエーシス理論には、エクソソームもエピジェネティクスも、ウィルスによる進化も、RNAによるリプログラミングも出てきませんね。元にされているオートポイエーシス理論は、ひと昔前の概念と思った方がいいかもしれません。」
オートポイエーシスは生命が今実現していることについての理論なので、遺伝子を生命に必須なものと捉えてない。だからこのコメントは的外れだと思うけど、これはありがちな反応なので、自分がオートポイエーシスについて本を書くときは、こういう反応に対して先手を打っておく必要があると思った。
いっぽう「なめ敵」では、オートポイエーシス理論を補うように「核」の概念を加えている。それは自己組織化システムになんらか制御を加えたいという理論的な要請から組み込まれたものであって、オートポイエーシス的な考えからは離れていると思う。
この件についての私の考えは以前のブログ記事に書いた: 「CHAINセミナー 鈴木健「複雑な世界を複雑なまま生きることはいかにして可能か」に参加してきた」
ひとことでいえば、なめ敵での「核」は生命の構成要素ではなくて、いろんなスケールを上下するときに第三者から見たもの。「螺旋的な捉え方」の図を参照。
togetter: 毎度の自炊スレ。今回はスレ主が写真まで入れて「貧しさは選択肢を狭め、努力のコストは高くなる」ということを示しているのに、即座に「こういうふうに工夫すればよい」というレスが入ってる。それってしんどい人に「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」って言ってることになるから、毎度の泥沼展開へ。
でも後者の動機もわかる。たとえば「自分はお金も時間も設備もなくて苦しいのに自炊で月1万5千円で済ませている」みたいな自負があるからこその発言なんだよな。罪のないネットのやりとりに見えて、じつはそれぞれの人生を賭けた闘いになってるんだと思う。
自分ごとにするために書いておくと、一人暮らしを始めた27歳はまさにこんな狭い台所で、週5日9-18時で実験で週1で出張、炊飯器のご飯をカビさせて自炊は断念、帰宅は24時以降、たまに徹夜、3食+24時のコンビニ飯で太り、食費もかさみ、浪費癖が止まらず、結婚資金ゼロで(将来の)奥さんに叱られて、結婚後は財布を取り上げられた。
いま56歳で札幌単身赴任で仕送り生活。ポスドク当時よりも家賃が安くエアコンが無いアパートに住み、コンロは二口あるけど、まな板は片方のコンロを潰して使う。冷蔵庫の上に電子レンジ、洗い物用の棚を買ってその上に炊飯器。自炊は節約のためではなく楽しみのためと割り切ってる。人生最高。