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■ 「ツバサ、紅葉山砂丘、ローレイ・オルガン」(さうして、このごろ2024年5月前半)
(2024/5/2) 異世界転生IIやっと第15話まで観た。ナナホシ回だったのだけど、特殊EDがすごくよかった。
ナナホシが宴会で楽しそうに木のスプーンをマイクに見立てて歌うカットからイントロが始まって、聞き覚えあるけど何だっけ?と記憶をたどっていると、懐かしい歌が始まって、ナナホシが歌っている。そうするとさっきのカットも、異世界にあるはずのないマイクでカラオケを歌っているシーンなのだと気づいて、しかもその曲は故郷からの旅立ちの歌で、ナナホシの望郷の思いの強さに涙が出てきてしまった。
感想サイトを漁ってみると、9話の段階でナナホシが鼻歌でこの曲(アンダーグラフの「ツバサ」)を歌っているという指摘がある。確認したら本当だった。ああすごい。
前述の特殊EDの件だけど、見直してみると、ナナホシが木のスプーンをマイクに見立てているカットはイントロが始まったときは提示されているのだけど、歌が始まるとそれは消され、画面は全面スタッフロールに切り替わる。このため短期記憶が要求される。もしこのカットを消さずに歌が始まるのなら、ナナホシが歌っているということがもっとベタに分かるはずだ。(そのカットを縮小して、その隣にスタッフロールを流すというのはよくある演出だから。) でも意図的にそうしてないのだろうが、その意図はなんだろうか。さりげなくしたいということもあるけど、画面を消すことで歌詞を聴くように誘導しているのかもしれない。
まだ言葉が足りないな。初見でこのカットを見たときは、宴会で(これまで見たことがないような表情で)楽しそうにしているナナホシのカットとして見逃される。でも特殊EDでナナホシが歌っていることに気づくと、さっきのカットは「木のスプーンを、異世界にあるはずのないマイクに見立てて、異世界にないカラオケで、ナナホシが転移されてきた5年前くらいにはすでに名曲として定着していた歌を歌っている」ということが判明する。それは短期記憶を駆使するか、もしくは見直さないとわからないようになっている、こうだな。
原作ではここで歌う曲が「ガンダーラ」だったらしいのだけど、それを差し替えたのも、良い改変だと思った。
「板橋区徳丸のスリバチ地形」 こういうの大好き。歩いてみたい。
地形図もあった。なんかすげえ。
(2024/4/29) 同じく地理ネタ。東京の場合、5000-6000年前の縄文海進で武蔵野台地の東は海に沈んでいた。同様に札幌の石狩平野も海の下だった。 ここまでは知っていたのだけど、縄文遺跡のある場所として「紅葉山砂丘」というのを知った。現在の海外線よりも内陸に、細く砂地が伸びているらしい。宅地造成でだいぶなくなっているが、まだ訪問できるスポットが点在してる。これは自転車で見に行きたい。
PDF: 紅葉山砂丘/6000 年前の海辺から陸地への変化と人との関わり
紅葉山砂丘の地形、要はサロマ湖の砂州みたいなものが、いまの石狩湾の内陸5kmあたりにできて、それが海が下がって陸地の中に含まれたということだな。
(2024/5/9) 以前言及した「紅葉山砂丘」だけど、自転車で行ってきた。このページの地図から逆向きのルートで。
写真1: 地図の(9)。紅葉山33号遺跡は公園の中にある。うしろのこんもりしたものが砂丘跡だろうか?とくに説明板とかは無し。
写真2: 地図の(3)。保育園の裏に砂丘らしくものが残ってる。
写真3: 地図の(1)。オタベリヶ丘の砂山。観光スポットというかんじではないが、新興住宅街の中で、このあたりだけ林が残っていて、こんもりとした丘が点在していて、それが砂丘の跡という、そういう風情がある。
帰りは行き当たりばったりで。発寒川沿いのサイクリングロードを見つけた。川沿いを4kmくらいで気持ちよく走れる。歩いている人もぜんぜんいないので、歌いながら走った。
サイクリングロードが終了した道を南下すると、建設会社の敷地に札幌市電が保管されているのを見つけた。「新琴似」行きになっているところが味わい深い。とはいえここは新琴似駅からはだいぶ離れているのだけど。
ウィキペによると、鉄北線が札幌駅前から北大前を通り 新琴似駅まで全線開通したのが1964年で、1974年に地下鉄開通に伴って廃止されてる。
帰り道で「グルメファクトリー 新琴似店」に寄って、ホルモンを買って帰った。店構えとか店内のシステム(小型ホワイトボードに買いたいものを書いて渡す)が「トリッパ」と同じなので、系列店だろうか?牛サガリとシマチョウを買って食べたが、シマチョウがよかった。ここは再訪したい。
あと、屯田6条12丁目のバス停、車庫にも通りかかった。北大前の西6丁目通りを歩いていると「屯田6条12丁目行き」のバスというのは飽きるほど見かけるのだが、終着地には初めて訪れた。バス停は、運河沿いの寂れた住宅街で、商店もコンビニもない場所だった。
寝る前にスマホで読むコミックについて、無料分を追い求めていたら「逃がした魚は大きかったが釣りあげた魚が大きすぎた件」にたどり着いたけど最高。髪飾りがメリケンサックってwとか王子のストレートでバラが咲くのかよwとかコメント欄と心を一つにできる。
「私にだけテンパる上司の話」も独特に面白い。「わたなれ」もはやくアニメ化してほしい。「れな子が悪いんだよ」ってご唱和したい。「継母だけど娘が可愛すぎる」「ジャンル、変えさせて頂きます!」も面白い。寝るヒマがない (<-はやく寝ろ!)
Togetter: 「文化人類学では基本的に『途上国』『先進国』って言葉を使いません」
この件、文化人類学にもの申す意図はないので、自分事として考えておきたい。
エナクティヴィズムは反表象主義的だけど、そこで「「表象」なんて言葉は使いません」なんて言うと同じ隘路にハマる。「神経表象のような、表象でないものには「表象」の語を使わず、「マッピング/対応関係」の語を使うべき」とか、「「表象で説明する」のではなく、「表象を説明する」に発想転換するべき」とか、その都度もっと解像度の高い言い方をする必要がある。
ブログ記事について補足。
橋本治を再読して考えたのだけど、「自分の頭でものを考えるこのと重要さ」これって「合理的判断」と「情動に基づく判断」のせめぎわいの問題だ。身体を持つわれわれ人間は「情動に基づく判断」から逃れるのは難しい。(例: トロッコ問題でのpersonal condition) それがいまのイスラエルのガザ地区攻撃を説明すると思う。(荒れないように多くは語らないが、岸田秀による「日本国家についての精神分析」と同じ手法であの件を語ることができると思った) このような意味で、橋本治の「自分の頭でものを考えるこのと重要さ」って今にして思えば、だいぶ知識人的な議論だなと思った。
あと訂正:「宗教とは、この現代に生き残っている過去である。」だった。
あと、橋本治は「宗教なんかこわくない!」で、当時ブッダの生涯について別件で調べていたと書いてある。それってどの作品かと調べてみたら、「サイケ歌舞伎 月食」の脚本(1994)だったみたい。
Mike Ratledgeはハモンド・オルガンが高くて変えなかったのでローレイ・オルガンを買ったというエピソードがある。progarchivesより:
「weedyな音質(Ratledgeの言葉)に悩まされ、(…)ファズ・ボックスを使うことで改善した。このセットアップをマーシャル・スタックに接続すると、ボリューム・レベルを著しく狂わせることができたが、(…)ラトリッジは音符と音符の間の空白を避け、レガート・スタイルでソロを続けることでハウリングを防ぐことができることに気づいた。」
ベネットの本によれば「オルガンにファズ・ボックスを使うことを最初に思いついたのはマイク・ラトリッジだったらしい 」ともある。ググってみたところ、ベネットの本、とはこれのことだろうか: "The Canterbury Sound in Popular Music: Scene, Identity and Myth"
「Lowreyには、Ratledgeが有効活用した多くの機能(例えば、ノート・ベンディング)があった」というのを見て、ああ、"Why Are We Sleeping?"のあれか!と合点がいった。