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■ 第1回CHAINシンポジウムで講演しました(スライドあり)
第1回CHAINシンポジウムで講演をしました。
CHAINシンポジウムはCHAIN教育プログラム履修生を中心とし、CHAINに関わる方々の相互交流、CHAINの活動を知っていただくことを目的として、今回第1回が2025年9月9日に開催されました。
第1回は、本センターからの講演者としてわたくし吉田正俊が登壇し、ゲスト講演者として沖縄科学技術大学院大学(OIST)から本センターの連携研究員でもある谷淳さんにも講演していただきました。2人の講演の後ではパネルディスカッションも行われました。
これらの講演と議論を録画したものが、CHAIN youtubeチャンネルで公開されています。
スライドについてはこのブログで公開しておきます。
「行為する意識」 (2025年9月9日開催 CHAINシンポジウム講演のスライド)
当日使ったものから、著作権を考慮すべき部分について削除または差し替えを行っております。ダウンロード可能。書籍で使用している図については、CC BY4.0ライセンスを採用しています。
内容について少々語ると、このスライドは、2025年5月に出版された著書「行為する意識: エナクティヴィズム入門」(吉田正俊+田口茂)に沿った内容となっています。意識に関する研究の流れを追いながらそこにある問題を指摘し、それを克服するための方策として、予測的処理、エナクティヴィズム、神経現象学について説明します。そのうえで、「脳の過程と意識の過程の絡み合い」という考えを提案して、著者なりの神経現象学を提案しています。
著書「行為する意識: エナクティヴィズム入門」を買う前に内容を知りたいという人にとっては、あらかじめこのスライド(と講演動画)を見てもらうとよいと思います。
また、著書「行為する意識: エナクティヴィズム入門」を読んだ方にとっては、そのさきについてどう考えているかもこのスライド(と講演動画)で語っています(p.90-95)。ざっくりと言うならば、エナクティヴィズムを提唱したフランシスコ・ヴァレラは、それを当時の知覚、認知、進化の研究が持っていた、認知主義的、表象主義的な態度を批判したうえで、それに対するカウンターとして、エナクティヴィズムという考えを導入していたわけです。
私自身も「行為する意識: エナクティヴィズム入門」においては大枠はそのような流れで書いてあるのだけど、どうもしっくり行かない感じがする。
つまり、エナクティヴィズムは古典的な表象主義(「意識の神経相関」のようなアプローチ)については批判する。無意識的推論(ベイズ脳仮説)も見た目は違うけど表象主義を採用している。だからといって、それを間違っていると主張し、それに取って代わるものとしてエナクティヴィズムを置くことは、エナクティヴィズムですべての現象を説明しなければならないという立証責任が生まれる。じっさいにはそれに成功してない。そして、そんな必要はないのではと思う。
それで出版後にたどり着いた比喩が、「エナクティヴィズムと無意識的推論(ベイズ脳仮説)の関係は、非平衡系の物理と平衡系の物理のような関係ではないか」というものです。
逆さ眼鏡のような介入や、発達期の視覚のようなダイナミックな過程を説明するところにこそ、エナクティヴィズムの強みがある。しかし、いったん感覚運動カップリングが安定して繰り返し再現される、習慣された状況(=平衡系)では、確率的に事象を扱うことができるので、無意識的推論(ベイズ脳仮説)が役に立つ。
では、エナクティヴィズムは無用なのかというと、そんなことはない。われわれの認知と生命はつねに揺らでいる(=非平衡系)。意識の理解において、この揺らぎは無視できない。だからこそエナクティヴィズムは不可欠。
そしてじつのところ、エナクティブな視点はあらゆる事象に関わってくる。しかしそれは、習慣化されていない状態に立ち返る必要があるときだ。
そのための説明として、「蝶と蛾の世界」*の話をした。 (* これは自由エネルギー原理の説明をするときにいつも使うネタなので、知らない人は著書「行為する意識: エナクティヴィズム入門」もしくは吉田のFEP入門のスライドを見てほしい)
世界に蝶と蛾しかいないときは、観測値(網膜の活動パターン)と隠れ状態(蝶または蛾)との間に繰り返し再現される統計的パターンがあり、それをわれわれは「生成モデル」という同時確率分布として持つとするのがベイズ脳仮説、予測誤差最小化の前提だ。しかしそこにバッタが現れたとしたらどうなるか。このとき蝶または蛾のみを集合として持っていた隠れ状態の空間が壊れてしまう。このとき、ベイズ脳仮説、予測誤差最小化の確率的枠組みはいったん無効になる。そこで起きていることを知るためには、その確率的推論が埋め込まれている神経ネットワークのレベルに立ち返る必要がある。
そこではまずバッタが現れたときに、誤分類を起こして、蝶または蛾であると推論することになるだろう。しかしそれが繰り返されてゆくとき、どこかでバッタに固有の意味が付与されたとき(たとえば、蝶も蛾も美味しいが、蝗はもっと美味しいことが判明したとか)、[蝶、蛾、バッタ}を集合として持つ隠れ状態の空間の作り直しをしていることになる。
この例も感覚運動カップリングが安定して繰り返し再現される、習慣された状況が壊れたときのことを想定しているけれども、それは「意識」とかややこしいものを持ち出さなくても、学習というダイナミックな過程で起きていることだ。
(計算理論の中で破綻なく話をすることは可能だ。あらかじめ隠れ状態の空間として、蝶と蛾と、それ以外の可能性もあるけどそれらはすべて生起確率をゼロとしておけばよい。でもそのような処置をあらかじめ用意することはできない。「バッタが現れる」という想定外のことが起きてから、後付けでそのように説明することができるということに過ぎない。)
「行為する意識: エナクティヴィズム入門」では、このような、実際にやってみないとわからないものを、行為的媒介と呼び、可能化条件として非自明な制約が過程と過程をつなぐものとして、生命や意識の構造について議論したのだった。
話が長くなったので、いったんここで切っておきたい。CHAINシンポジウムでは、質疑応答の中でも有意義な質問が数多くあった。そのあたりは録画の方を見てほしい。
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- / 投稿日: 2025年09月29日
- / カテゴリー: [吉田+田口「行為する意識: エナクティヴィズム入門」]
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