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■ 「箱から出る」について

(20240603) ネットの話題では「人として接しろ」っていう言説がしばしば出てくる。では何をしたら「人として接する」になるのか、という問題がある。自分はこれについて「箱から出る」という形で自分なりに掴むことが出来たと思う。

「(たとえば)コンビニの店員の行動にイライラして邪険に扱うのは、自分がそういう箱に入っているから」という話で、ここで扱われているのはまさに「人として接する」ことだ。

「自分の小さな「箱」から脱出する方法」 これは自分が価値があると思う、ほぼ唯一の自己啓発本。

「人として接する」ためには、カテゴリによるレッテル付けを越えて、個別の事情に対面する必要がある。だから、ネット上の匿名の会話でそこに届くのは難しい。

「箱から出る」ってのはいったんわかればできるようになることではない。人間の習性として、すぐに相手をカテゴリーに押し込めて、個人にそれを投影してしまう*。だから、不断に成功し続けるという形でしか達成できない。薬物依存と同じだ。

(* 原著ではこうして箱の中に入りそれを正当化することを「自己欺瞞」と呼ぶ。自己欺瞞は本書のメインテーマであり、英語のタイトルにも入ってる。)

だから自分は相手がコンビニ店員だろうと、通りがかりの老人だろうと、同じように箱から出るように、一種の修行を続けているつもりでいる。

そして、しばしばそのことを忘れる。だから今回のエピソードで、自分の重要な修行を思い出すことが出来てよかった。

毎度自分が言及する「銀河通信」の喩えにつなげるならば、ネットを介して、それでも箱の中でないような、個別性を保ちながら、どこかに届けばいいと思ってる。

だからこそ自分は個人名を出して、長年ブログを続けてきたわけで。それによって、もし将来なんか都合悪いことがあったとしても、この人はブログの内容をぜんぶ消して逃げたりはしないだろう、という信用を作ってきたつもりなんだけど。


こちらは別の話題だが、ネットネタ関連ということで、繋げてみる。

ジョセフ・ヒース「哲学者がキャンセルカルチャーを懸念すべき理由」

いろいろおもしろかった。哲学者が学問的実践として獲得してきた規範(1. 道徳的・政治的問題の議論における感情的中立性; 2. 他人の議論を再構成して提示すること; 3. 用語の規約的定義)がキャンセル・カルチャーに脆弱である、というのが本題。

話の枕では、哲学者もキャンセル側の行動をしてる(ソクラテスではなく市民裁判官側に立つ)があるのだが、話は上記の本題で終わってしまい、ここに戻ってこない。

上記の規範は自分も大事だと思うが、ネットには通用しないのもわかる。

「その学問的営為の中核にある「論証」に対して、ちょっと偏執的なまでの関心を持っているため、用語を定義することにも重きを置いている。」

このあたりは分析哲学のカラーが強そう。自分の少ない経験では、どうもこういう論文での、ある(心的)概念について定義を置いて論証、という形式にいまだ馴染めない。

心的現象(注意、意思決定、など)のほうが先にあって、それを言語的に表現することは簡単ではない。でもいったん定義してしまうと、その言葉に引っ張られて、本質を掴めてないので始めから的を外しているようにしか思えなかった。むしろ始めに定義した部分を疑うのが哲学ではないのか?とか思ってしまう。


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