« 「側頭」ってなんで"temporal"なの? | 最新のページに戻る | スチュアート・カウフマンの「生命はいかにして複雑系となったか」を読んだ »
■ 加速主義と資本主義リアリズム
ずっと加速主義について読んでおこうと思っていたのだけど、昨晩急にその気になってきたので1日かけていろいろ読んでみた。
そもそもなんで興味を持っていたかと言うと、神経科学、意識研究の分野で、シンギュラリティーだったり、マインド・アップローディングとか、そういう話題をいくつか聞くのだけど、正直自分はぜんぜん興味持てなかった。(端的に、死ぬ前に自分の意識をアップロードしておきたいという欲望がない。) あの方向性について、自分なりに考えをまとめておきたくて、それには加速主義が関わってきそうだと思ってた。
まずはwebの資料から探した。オルタナ右翼の源流ニック・ランドと新反動主義 こちらは2018年に公開された当時にチラ見した覚えがある。今回読んでみて、なるほど、ニック・ランドと新反動主義そのものよりも、思弁的実在論との関わりに興味を持った。
さらにマーク・フィッシャーと再魔術化する世界 こちらも読んでみて、むしろマーク・フィッシャーのほうに興味が惹かれた。とくにアシッド共産主義とモリス・バーマンが出てくるあたり。
ともあれ「ニック・ランドと新反動主義 現代世界を覆う〈ダーク〉な思想 (星海社新書)」 木澤 佐登志 を読んでみた。ドゥルーズ & ガタリあたりから文体の影響を受けているようで、こういう本を読むのは久しぶりで正直面食らった。ともあれひと通り読んでみて、思弁的実在論の話がわかってよかった。あと、どうにも西欧中心主義だなと思ったが、マインド・アップローディング自体も「すべての死者を意識を蘇らせる」というキリスト教的な考えが背景にあるという記述があって、なるほどと思った。
あと出てくるサブカルがドラムンベースだったり、クトゥルーだったりホラーだったりで、自分の守備範囲からぜんぜん離れていた。Vaporwave (「リサフランク420 / 現代のコンピュー」とか猫シCorp.とか)が言及されていたところは面白かったけど、自分、いうほどvaporwave好きじゃなかったわ。
それでひきつづき、「資本主義リアリズム」 マーク フィッシャー を読んでみた。
こちらは微妙に翻訳がわかりにくいのもあるのか、読むの辛かった。そもそも「資本主義リアリズムcapitalist realism」の「リアリズム」の含意がわからない。芸術の形式としてSocialist realismってのがあって、それをもじってCapitalist realismって言葉を使ってた人がいて、それをマーク フィッシャーが拡張した、というのだけど。定義としては「ネオリベ的な資本主義によって他の選択肢はないと思わせるようなシニシズムが蔓延した状態」とあるけど、それのどこが「リアリズム」かわからなくて往生した。けっきょくのところ、政治学でいうところの、理想主義idealismに対する現実主義realismということらしくて、ネオリベ的価値観で現実見ろよってのに左翼的な運動観が勝てない、ってことなのかな、と全体を読んで察した。(そういうことが明示的に書かれてはいなかったけど、あとで調べてこの人が左翼の新しい形を模索しているという文脈を得たので。)
第3章が「資本主義とリアル」なんだけど、この「リアル」が原文を読んだら、大文字の"the Real"、つまりラカンの現実界のことで、"the Real"を資本主義が見せる’reality’(現実)が隠してしまうという話だった。このあたりは訳注がほしかった。けっきょく3章だけは原文あたって読みなおした。
本全体としては、なんかイギリスでFurther Education Collegeの教員をやっていたときの恨み言みたいな側面も多かったけど、問題となっている現在の閉塞感については日本もイギリスも同じで、共感した。
ここまできて今度は「現代思想2019年6月号 特集=加速主義」から冒頭の対談「加速主義の政治的可能性と哲学的射程」と「気をつけろ、外は砂漠が広がっている――マーク・フィッシャー私論 / 木澤佐登志」を読んだ。
対談の方はざっくり状況を掴むのに役に立った。あと、「西欧中心主義だな」みたいなのはやっぱ思うんだ、と納得した。
「マーク・フィッシャー私論」のほうは「資本主義リアリズム」から死の直前に書いていた「Acid communism序文」までの流れが書かれていて、これも面白かった。わたしのブログの過去の記事を見るとちょいちょいケン・キージーだったり、13th floor elevatorsのトミーホールの思想に触れていることからわかるように、このあたりの話題にはうるさい。
そういうわけで「Acid communism」には興味があるけど、「意識変容によって世界を変える」みたいな思想はすでに70年代に試されたわけで、たとえばそれがエサレン研究所経由で自己啓発セミナーとかになった話(「エスリンとアメリカの覚醒」は未読だけど)とか考えると、すでにすっかり「資本主義リアリズム」にとりこまれているわけで、ここに未来があるようにも思わない。「マーク・フィッシャー私論」読んだかぎり、そこは「でもやるんだよ!」精神だったのだろうか。
(なお、マインドフルネス瞑想がGoogleに採用されたり、スローライフが金持ちの道楽だったりという形で加速主義に加担してるって話は「資本主義リアリズム」の訳者の一人による記事 :「スローライフが、むしろ資本主義を「加速」させるという皮肉な現実」)で言及されてる。)
でもたぶんそれと地続きになっているんだろうと思うのは、脳科学の進歩、意識の解明によって、「自由意志とはなにか」「責任とはなにか」についての見直しがされている、そしてわれわれの意識経験がいかに多様で、変容しうるかもわかってきた。これらのことが我々の世界観が変わるうる、大きなインパクトを持っているだろうということ。そう私は思ってる。(これが「意識の科学入門」の裏テーマになってたりする。) じゃあそれはシンギュラリティーやマインド・アップローディングへの情熱とどう違うんだろう、と自分ツッコミしてみる。
…やっと本題に近づいてきたのだけど、ここで時間切れ。GWにこれ以上使う時間はないので、この話題に再訪できるのはお盆休みかそれよりも後だろうか。それではまた。