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■ 駒場講義の準備メモ(2014年版)

毎年6月恒例となってきた、駒場講義について少し考える。このあいだのclinical neuroscienceの総説原稿を元にして再構成する。「意識のcontent」だけではなくてstateとしての意識、みたいなことを考えるのに「前反省的自己意識」の概念が使えることがわかったのが去年からの進歩だけど、いきなり現象学入門ができるほどこなれているわけでもないので、ダマジオの中核自己みたいなもの、いやそれでもまだ抽象的すぎるので、「自己」概念についての経験的な知見に言及する方向か。大きくは変わらないがいろいろこなれた流れを目指したい。

来月の駒場オムニバス講義では、先日書いた日本語総説のストーリーに沿って、これまで作ったスライドを再構成しようと思う。NCCという研究プロジェクトがあって、contrastive methodで強い表象主義なのだけれども、内的な意味を持ったカテゴリーを作るためには行動をして、その主観にとっての意味を作らなければならなくて、ゆえに知覚と行動ととのループがどう作られるかを力学系的に捉える必要がある。いったんそのような意味での表象ができてしまえば、その脳の活動はふたたび同じ知覚刺激が与えられたときだけでなく、夢や想像でその神経ネットワークが活動した時にも知覚経験に対応した夢、想像の経験を作ることができるだろう。こういった考え方でまとめようとすると、Varela-Noeというよりも、Andy Clarkの穏当な表象主義あたりに落ち着くだろう。

じゃあってんで、「現れる存在」"Visual Experience and Motor Action: Are the Bonds Too Tight? (2001)"あたりでまとめるということになると、まあ池上さんはみんな知ってることだろうから面白みはないかも。

あと神経科学側から足せることは、ここ数年でのMark Churchlandの運動皮質ニューロンの仕事やMante et alのPFCの仕事のように、多数のニューロンの活動から状態空間を作ってその中で軌道を描く、みたいな仕事が実験側からも出てきたことを紹介するとかか。

つまり、革命家ではなくて改革主義者でいくと、(単純な)NCCを拡張して、行動からの意味付けによって形成したものにして(たぶんここにベイズ脳が入る)、(単純な)contrastive methodを拡張して、isomorphismからhomeomorphismになる。

"neural correlates"の歴史を辿るひとつのやり方として、「運動野ニューロンが何を表象しているか?」を追うと、個々の筋肉の活動に対応しているという説と、ポピュレーションコーディングをしているという説があったのだが、Steve Scottによってそれらがoptimal controlをしている内部モデルの一部として捉えればよいということで統一された。これは知覚での予想コーディングへの流れと似ているというか先取りしている。(というか川人先生の説ってのは知覚も運動も両方それで説明する。)


駒場講義でIITについてちょっと喋れないかなあと思って大泉さんのPLoS Comb Biol論文 "From the Phenomenology to the Mechanisms of Consciousness: Integrated Information Theory 3.0"をぴらぴらとめくってた。IITがver.3になってて、現在と過去だけでなく未来への影響まで考慮するようになった。

あと、大泉さんから教えてもらったブログ記事も読んでる。これはあまり意味のないネットワークでもphiが大きくなってしまうという問題を指摘している。これ自体は前から議論になっていることで、indexの作り方しだいで対処できそう。

あともうひとつこのブログ記事では、"Pretty-Hard Problem of Consciousness"という言い方をしていて、これはIITの目指していることを端的に示していてわかりやすい。つまり、あるシステムがconsciousであるかをシステムのある時点(+直前直後)の状態だけから決めるという試みだというわけだ。行動とか来歴とか力学系的な軌道とかそういうものをprojectして、ある時点でのスナップショット的に捉えるという点ではNCCと発想は近い。だからChristof Kochがこれに肩入れするのかなとか思った。

京都のシンポジウムの時にも話したことだけど、IITに行動と環境との相互作用は明示的には入ってないんだけれども、高いphiを持つネットワークを作るためには進化と発達とをやり直すような経験が必要になるであろうという意味では全く入っていないわけではないはず。

以前の論文でGAで進化させてfittnessを上げるとIITも上がったというシミュレーションのPLoS Comb Biol論文 "Integrated Information Increases with Fitness in the Evolution of Animats"があった。たぶんphiを挙げてゆくためには、そんなかんじでagentを鍛えてゆく必要があって、ある時点でそのまま与えて作れるようではないはず。というか作れたらたぶん間違ってる。

"Pretty-Hard Problem of Consciousness"に関してはコメント#39がNed Blockの“Harder problem of consciousness”と同様であるとコメントしている。

あと、Chalmersがコメントしている。詳しいことはGiulio Tononiの反論を待ってからとのことだが、Pretty-hard Problem (PHP)をPHP1,2,3,4に分類している。つまり、consciousであるかどうかに関する我々の直感(石には意識はないだろう)に合致しているかどうか(PHP1)とあるシステムに意識があるかどうかを教えることができる(PHP2)。この違いは機能的なものからだけでは意識があるかどうか決められないから直感を使うよって話で、それではまたまたハードプロブレムに逆戻りなんだと思うんだけど。

ともあれ私の理解ではPHP2は、vegitative stateの人のように、直感的には意識があるとは思えないが、呼びかけに対してfMRIで反応が見られる例(「テニスをしているところを思い浮かべてください」)のことを想定しているのかと思った。


大泉さんから教わったけど、以前のIIT批判のブログにGiulio Tononiが反論(後述ブログ記事内のリンクのwordドキュメント)を書いてて、さらにそれへの応答が書かれてる。Giulio Tononi and Me: A Phi-nal Exchange コメントではChristof Kochも応答している。


駒場講義の方は昨年のそのまんまなら今すぐにでも出来るがそういうわけにもいかない。合評会、基礎論学会を取り入れて再構成、それなら今日中に作れる。それをバックアップとしておいて、日本語総説で作った流れで再構成する。これを火曜の夜まで時間が許すかぎりで、レジメをアップする。

意識を科学的に研究するためには一般的定義で充分 -> NCCとはなにか -> Logothetis and Schall 1990 -> Kreiman 2001 -> Wilke PNAS -> セマンティックプライミング -> 盲視 -> 可塑性(Sugita + Sur)-> 環境との相互作用 -> active inference -> 理論の必要性 IIT みたいな流れ。たぶんぜんぶは無理。

途中に「awarenessとattentionを区別する」、「awarenessとdecision biasを区別する」-> メタ認知、という流れもあったが、これは無理か。冬講義のときにこのへんやってみたけどもう少し工夫してうまくやる必要がある。


うーむ「力学系」についてしゃべろうとしたらけっきょく多賀さんの本とかから抜書きすることになって、これは私である必要はないなあという気がしてきた。だったら「精神・神経疾患におけるさまざまの意識経験」みたいな方向について集めてきた事例について話して当事者研究につなげるほうがよいか。

ただし、それならそれで「当事者研究について話してください」ではなくて「意識研究の中で当事者研究がどうしても必要になる」というふうに理屈を持ってゆく必要がある。うーむ。


そういうわけで、これまでにツイートしたのとかまとめて、半側空間無視や統合失調症の前駆期の意識経験などについてスライドを作ってる。

「日常的になにかを探しているとき、見つけにくいなあということが多くなることにまず気づきます。周りにいる人に尋ねると、ほらそこにあるよ…と簡単に言われて見渡すけれどもぜんぜん見えたものじゃないので、教えてくれた人がいらだって、ほらここ、と手にとって目の前に突きつけられるまで、ああ、あったとは思えないほど、ものが魔法のように消えてしまいます。」「目玉がどんなに一生懸命あたりを探っても、目的とするものの上に画像を結ばないのです」「高次脳機能障害者の世界―私の思うリハビリや暮らしのこと」山田 規畝子

べつの部分については以前抜き書きしてブログにまとめたことがある:研究関連メモ20140316

あと、"Psychedelic" Experiences in Acute Psychosesに関してもブログに抜き書きを作った:Aberrant salience仮説と潜在制止と主観的経験

超訳気味に日本語にしてみよう:「「いちばん最初に起きたのは、私の脳の眠っていた部分の一部が目覚めて、さまざなま人、出来事、場所、考えに対して興味が惹かれるようになったことです。それらは普段だったらなんの印象も憶えないようなものでした。」

「全てのことになにか圧倒的なまでに意味深いものがあるように思えるのです…知らない人が道を歩いているのを見ると、そこに私が解釈しなければならないなにか徴(sign)があるように思えました」

「私が入院をした頃には、窓枠の光や空の青さがあまりに重要な意味を持ちすぎて叫びたくなるような、そんな「覚醒状態」の段階にまで到達していました」」

それから中安信夫 (1999) 初期分裂病 日医雑誌より、

  1. 自生思考 「自分で意識して考えていることと無関係な考えが,急に発作的にどんどん押し寄せてくる」
  2. 気付き亢進 「他人の声や不意の音,たとえば戸を開閉する音や近くを走る電車の音などを聞くとビクッとして落ち着かなくなる」
  3. 緊迫困惑気分 「何かが差し迫っているようで緊張を要するものの,なぜそんな気持ちになるのか分からなくて戸惑っている」
  4. 即時的認知の障害 - 即時理解の障害 「他人の話の内容,テレビの内容などが理解しにくくて,なかなか頭に入らない」

前駆期という概念自体には問題があって、これらの症状は最終的に統合失調症を発症する人でなくても一時的には起こりうることなので、前駆期に投薬などの処置をすることは多量のfalse alarmの例を含んでしまうことだろう。ただし、発症過程のメカニズム理解の意味では重要な資料だと思う。


当事者研究が自己と経験の構造について重要な知見を持っていること、でも人それぞれでのその経験をどうやって共有するかという問題までたどり着くと、じつは以前から興味を持っていたテンプル・グランディンの自身の自閉症としての経験と動物の行動理解の話というのがまさにこの間主観性の問題であり、そして私の仕事そのものの、動物での経験とヒトでの経験とをどう繋いで考えるか、という問題にぶち当たる。

これこそがわたしのライフワークと言ってよいものになるのではないだろうか。まだ骨格しかないのだけれども、かなり核心っぽいものに手を伸ばしている感触がある。

この歳でそんなこと言ってていいのかというのはあるが、あくまでこれはモノの言い方であって、これまで問うてきたことを拡張していった先の方向性が見えたというか、そういう意味で。


駒場講義の構成、いろいろやっていたらけっきょく統合失調症のサリエンス仮説を入れるスペースがない。11月の当事者研究の話を入れて話の流れを作るとそれだけで昨年とはずいぶん違った感じにはなっているのだが。Goodale縮めて半側空間無視を入れて3*2の腹側・背側経路を入れるか。


新幹線の中でだいたい講義スライドはできあがった。でも、広域科学の授業で「前反省的自己意識」とは「当事者研究」とか言い出すのは無茶な気もしてきた。ギリギリまで手を加えて、前提を吹っ飛ばさないようにする予定。両眼視野闘争に関しても今回はその手前のおばあさん細胞あたりから話をすることでもうちょっとはマシになったはず。そういう作業を繰り返して、極力置いてけぼりにしないようにする所存。でも眠い。


明日のスライド用に「せっかくだから、俺はこの赤の扉(神経現象学)を選ぶぜ!」っていうネタを考えついたが、元ネタ(デスクリムゾン)を知らないのに引用するのは正しくないなと思ったのでボツにした。

両眼視野闘争の説明の図で、ノートを丸めて望遠鏡みたいに覗きながら手の平を横に添えると、手の平に穴が空いて見えるという図がOlivia Caterだったかだれかが作っていたはずなのだが、探してみたら見つからない。こういうのは気がついたときにストックしておかないとダメだな。

該当するブログの記事をひとつ見つけた。

ブログ更新しました。「駒場講義2014「意識の神経科学を目指して」配付資料」

寝る!


目覚めた。あと4時間か…

Jakob Hohwyの両眼視野闘争の話をスライドに足した。part 1のスライドは97枚、 part 2のスライドは89枚。実際には"Any questions?"だけのスライドとかもあるから実質はもっと少ない。あとは丁寧に説明していければよいのだけれど。

corollary dischargeとmicrosaccadeについては削った。これで寄り道が減って、かなり一本道になってきたと思う。


駒場講義終了! 諸々重要な行事も終了で、新幹線で岡崎まで移動中。東京駅へ行くためにひさびさに満員電車に乗って、やっぱあんなの正気の沙汰ではないなあと思った。

講義の方は、前半の「両眼視野闘争、二つの視覚経路、盲視」は質問もたくさん出て、興味持ってもらえたようでよかった。以前に藤井さんがブチ切れたようなので、講義参加者の皆さんがへんに空気を読んでたくさん質問したとかでなければよいのだけれど(<-気にしすぎ)。

後半の「ベイジアンサプライズ -> 予想コード -> Active inference -> sensorimotor contingency -> ヘテロ現象学 -> 神経現象学 -> 当事者研究」の方は、ヘテロ現象学のあたりで参加者の集中力が落ちてしまったのがよく分かった。

もっと話の流れをこなれるようにすべきあったかもしれないし、「ヘテロ現象学(=現状の意識研究)を超えるものを探そう」というかなり無茶な問題意識を共有してもらうことに失敗したというのが最大の問題だったか。(まさに「せっかくだから俺はこの赤い扉を選ぶぜ!」としか言いようがなかった。)

てんかん患者さんの研究とかも入れてそれなりに具体的にはしたのだけれども。もし次の機会があるならば、元々考えていた、力学系と状態空間(Mark Churchland)とSOC (avalanchesとup-dawon state)とIITというテーマについて掘り下げるという方向でいこうかと考えている。

そうそう、IITが高い状態というのはSOCになっているだろうか、という興味がある。excitation-inhibitionのバランスでcritical stateになっていること自体は意識の充分条件ではないだろうけど、SOCになってないような回路はpathlogicalであるか、もともと考慮に入れる必要のないtrivialな回路(デジタルカメラの例のような)を排除できると思う。では、criticalであることじたいは内側から見て分かる特性か?って問題にもなるけど。

つかそういうことをこそ池上さんと議論できたらいいなあと。池上さんのMDFというのがIITやSOCから見てどういう性質を持っているのかとか。数理的なことが私の手に負えることとは思わないので、どうやれば寄与できるかとか考える。


大学院講義でcovert attentionを説明するときには、このレビュー論文の図3bを見てもらってから、「皆さんも夜コンビニに行くときに入り口でたむろしてるヤンキーと眼を会わさないようにしてるでしょ? でも注意はそちらに向きまくってる。あれがcovert attention。」と説明するようにしている。

今にして思えば、Covert attentionの話をするためには、その前に「そもそも我々の視野で視力が高いところはせいぜい1degくらいしかない」という話(腕を伸ばした先の親指の爪の幅が1deg)って話をしてからにすればよいのだな。だからこそfoveateする必要があるのだし、orientしたりfoveateしたりせずに、attentionだけを向けるという高度な技がヒトやサルでは可能となる。このあたりをちゃんとまとめると、上丘がそれぞれの動物でなにに関わっているかという比較認知的な話が出来そう。ウサギやカエルの上丘、視蓋には方向選択性がある話とか。

ゴプニックの赤ちゃんはランタン型の注意って話も、赤ちゃんは中心視野の視力が低いということと対応付けて考える必要がありそう。


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