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■ クオリアについての「心の哲学」(6)

Stanford Encyclopedia of Philosophy---Qualia 6節(Tye, 1997)より:

VI. クオリアと内観

以前まで,「クオリアは経験に内在する非志向的な特徴であること」を内 観によって示すことが出来ると考えられてきたが,最近は,そう考えない 哲学者が多い(Harman 1990, Dretske 1995, Tye 1995)。例えば白い壁に 塗られた赤い丸印を見ているとしよう。ここで,「貴方がそこに見ている 丸印」から「丸印を見ている貴方の意識(視覚体験)」に注意を切替えて も,貴方の意識に上る特質は全く同一であり,それ以上の新しい特質は何 も現れない。

この意見は内観的に認識できるクオリアが表象的な性質であることを提唱 しているが,内観によってはそう言えないとする者もいる(Block 1991)。 しかし、たとえば青の視覚を体験するとはどういう事かを,我々は 内観に基づいて知る。このように,ある状態が何であるかという事が,そ れが表象する内在的・非志向的な特質の問題であるなら,我々はそのよう な特質を内観的に意識している。この観点によると,クオリアが経験に内 在的・非志向的な特質であるかどうかという問題は空論である。いずれに しろ,その問題が内観によって解決されることはない。

(訳注、2ndパラグラフについて) クオリアが[経験]に内在するものなのか, それとも[経験が表象する対象object]に内在するものなのか という問題は,内観によっては解決できない, 従って内観という方法はクオリアの問題解決にとっては役に立たない ということではないかと理解した。 また、問題が クオリアが[経験が表象する対象object]に内在するものなのか、 ということであれば、クオリアは表象的なものであり、 内在的であるかどうかは重要な問題ではなくなる。


[qualia:2183]村上
これまた原文は短いので最初は甘く見ていたのですが,意に反して強敵でした。というか,どうしても意味が掴めなくて,これ以上考えると血を吐きそうなので,「中国人サール」的翻訳を出してしまいます(^_^;)。すいません,添削して下さい。

特に二段落目(原文では三段落目)が意味不明です。Blockさんは果して何を言っておられるのでしょうか。それが解らない原因は一段落目の誤解にあるのかもしれませんが(^_^;)。


[qualia:2186]吉田
原文と併せて読んでみましたが、確かに意味は取れますし、要旨も原文に忠実に出来ていると思うのですが、この節全体としてTyeが何を言わんとしているかがよくわからないですね。

わからないなりにまとめると、「Tyeの立場であるクオリアの表象主義」と「内観を通して認識されるクオリア」とでのクオリアの特性の違いになんか問題があって、それに少しなんか決着をつけているようではあるのですが。

Introspectionについてもう少し何かがわからないといけないのかもしれない。あと、1節のsense-datum theoryの話がまた帰ってくるのかもしれない。もう少し考えてみます。

あと、第一段落の頭に関しては「以前まで、クオリアは経験のうちの内在的非志向的特徴であると主張するのに哲学者は内観に直接訴えかけていたが、最近は、内観によってはクオリアのそのような(内在的非志向的)特質は明らかにならない、と主張する哲学者もたくさんいる。」という感じかと思います(原案はクオリアと内観がごっちゃになってる感じがします)。


[qualia:2187]村上
> 原文と併せて読んでみましたが、確かに意味は取れますし、
> 要旨も原文に忠実に出来ていると思うのですが、
> この節全体としてTyeが何を言わんとしているかがよくわからないですね。

全くの誤訳でも無かったようで,とりあえず安心しました(^_^;)。ただ,二段落目は意味が分からなかったので,ほぼ盲目的全訳になってしまってるのですが…。

> Introspectionについてもう少し何かがわからないといけないのかもしれない。
> あと、1節のsense-datum theoryの話がまた帰ってくるのかもしれない。
> もう少し考えてみます。

そうですね。sense-datumの件も絡めて,「内観」の理解が肝のようです。何か分かりましたら宜しく御教授下さい。

> あと、第一段落の頭に関しては
> 「以前まで、クオリアは経験のうちの内在的非志向的特徴であると主張するのに
> 哲学者は内観に直接訴えかけていたが、
> 最近は、内観によってはクオリアのそのような(内在的非志向的)特質は
> 明らかにならない、と主張する哲学者もたくさんいる。」
> という感じかと思います
> (原案はクオリアと内観がごっちゃになってる感じがします)。

すいません,大胆に意訳・圧縮したつもりだったのですが,少しやりすぎだったかもしれません(^_^;)。

クオリアの広義の定義に「クオリアは内観的にアクセスできる」と書かれているので,「内観がクオリアを現す」ことに意見の相違はなく,問題は「クオリアが経験に内在的・非志向的な特質であるか否か」という点にありますが,簡潔に表すと

以前: 内観 ← クオリア = 経験に内在的・非志向的な特質
最近: 内観 ← クオリア = ¬経験に内在的・非志向的な特質

となり,さらに思い切って

以前: 内観 ← 経験に内在的・非志向的な特質
最近: 内観 ← ¬経験に内在的・非志向的な特質

と圧縮し(^_^;),

> 以前まで,内観は経験に内在する非志向的な特徴を現すと考えられてきたが,
> 最近は,内観がそのような性質を持つとは考えない哲学者が多い

と訳したのが原案でした。敢えてクオリアという言葉を「省いた」つもりだったのですが,意図を外れて「ごっちゃ」になってしまったようです。要約というのは難しいですね。


[qualia:2335]吉田
ReferenceのHarman 1990とBlock 1991を読んできました。それで少しわかったことなどを。

Harmanが書いているのは、「クオリアは[経験]に内在する特徴である」というのは誤りであって、「クオリアは[経験が表象する対象object]に内在する特徴である」、よって、クオリアは志向的なものであるとしています。

おそらく、(訳での)第二パラグラフで言っているのはこのことで、あるクオリアが内在的(そのクオリア自身によってのみ決まり、他との関係にはよらない)であるとしても、それが[経験が表象する対象]に内在的であるということならば、Tyeの立場であるクオリアの表象主義にとっては脅威とはならない。よって、クオリアの性質が内在的であるか否かは思弁的なこと、空論に過ぎない、と言っているようです。

一方、Block 1990は内観によってはこういうことはわからない、とHarmanを批判して、内観というシンプルな方法で解釈が難しい答えを出そうとするのは方向を間違えていると言ってます(そのため、Blockは逆転地球という方法はややこしいが、解釈は簡単な問題(Blockの自己申告では)を立てていると主張する)。

おそらくそのため、Tyeは「もしかするとクオリアは経験に内在的・非志向的な特質としては内観に現れないのかもしれないが,内在的なクオリアが内観されることが決して無いとも言えない。」というようなことを言っているようです。


[qualia:2348]村上
吉田さん:
> おそらくそのため、Tyeは
> 「もしかするとクオリアは経験に内在的・非志向的な特質としては
> 内観に現れないのかもしれないが,
> 内在的なクオリアが内観されることが決して無いとも言えない。」
> というようなことを言っているようです。

「内在的なクオリアが内観されることが決して無いとも言えない」という時の内在的なクオリアとは,[経験が表象する対象]に内在的なクオリアであるという理解で良いでしょうか?

つまり,クオリアが[経験]に内在するものなのか,それとも[経験が表象する対象object]に内在するものなのかという問題は,内観によっては解決できない,従って内観という方法はクオリアの問題解決にとっては役に立たない,ということでしょうか。


[qualia:2354]吉田
> 「内在的なクオリアが内観されることが決して無いとも言えない」という時の
> 内在的なクオリアとは,[経験が表象する対象]に内在的なクオリアであるとい
> う理解で良いでしょうか?
> つまり,クオリアが[経験]に内在するものなのか,それとも[経験が表象する
> 対象object]に内在するものなのかという問題は,内観によっては解決できな
> い,従って内観という方法はクオリアの問題解決にとっては役に立たない,と
> いうことでしょうか。

私もそのような理解に達しております。

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