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■ クオリアについての「心の哲学」(3)

Stanford Encyclopedia of Philosophy---Qualia 3節(Tye, 1997)より:

section III. クオリアは還元不可能で非物理的な存在か

「色の科学者のMary」の思考実験で、Maryは白黒の部屋に幽閉されて、その 中から色についての物理的情報を獲得し、この分野での世界的権威となる。 ある日Maryは開放されてバラを見てこう叫ぶ「赤を経験するってこういうこと なんだ」。これに対して「Maryが部屋の外に出る前には色に関する主観的特 質についての知識を持っていなかった」という説明は物理主義者には使えな い。赤を経験するということが物理的特質と同じことであるならば、Maryは部 屋にいる間に「赤を経験するということ」についてすでに知っていることになる。

ある物理主義者は「Maryが外に出て獲得した新しい概念は、その前には違った 仕方で知っていた」と答える。このアプローチではMaryは新しい発見をしてない ように見えるが、そうではない。「Ciceroは雄弁家である」と「Tullyは雄弁家であ る」の違いは偽条件のレベルではなく、現れ方の様式のレベルであって、この 概念は同じことを参照している。よって「Maryは開放されて新しいことを知った こと」および「それに関わるすべての物理的事実をすでに知っていること」は両 立する。これこそがこの「知識論法」で物理主義者が答える必要のあることだ。

「哲学的ゾンビ」の思考実験で、ゾンビとは生き物の複製だが、どんな現象的意 識をも欠いている生き物だ。私のゾンビは私とは経験についてしか違っていない 。哲学的ゾンビはクオリアの物理主義にとって深刻な脅威だ。もしゾンビが形而 上学的に可能であるならば、(1)現象的状態と内的客観的物理的状態とは同一 でないことが示され、(2)クオリアについての事実は客観的、物理的な事実によ って決定されているとは言えなくなる。

この問題に対する物理主義者の答えとして有名なのは(Loar 1990)、「それが概 念的には可能であることは認めるが、形而上学的にはありえない」というものだ 。ゾンビの議論は単なる概念的可能性では足りない。このことは、「私がMichael Tyeではない」ということは概念的には可能だが、事実からすれば形而上学的 には不可能であることから示される。


[qualia:2029]吉田
あと、"The issues here are complex."のパラグラフは分析哲学の専門用語だらけで全然理解できませんでした。様相とか、可能世界とか、タイプ同一説とトークン同一説とかの言葉と関係あるようだ、というところまでは調べましたが、ある程度勉強しないとわかりそうにないので、深入りしないうちにとりあえずこれで出しておきます。このパラグラフは切ってしまうのがよいかもしれない。とにかく、TyeはJacksonやChalmersの意見に否定的であるようです。

調べ物している過程でhttp://www.artsci.wustl.edu/~philos/MindDict/dictindex.html を見つけましたが、役に立ちそうです。

ちなみに「(クオリアに関する)物理主義者」という言葉は定義なしに使われてますが、文章内の表現から推定するに、定義ではありませんが、(クオリアに関する)物理主義者であるなら、「物理的世界とは因果的に無関係な主観的世界」の存在を否定する、ということになるようです。

このsectionでの"phenomenal"はphenomenal, subjective / physical, objective
という対比から考えると、「現象」がよいと思いました。


[qualia:2030]村上
Maryとかゾンビの喩えは記憶にあったので,原文は読んでないと言いましたが,実は前に読んでいたようです。(理解できないところが多すぎたせいか,これまた読まなかったことにしていたようで(^_^;))。

クオリアが物理学で説明できるという主張が強く批判されうるものであるという事情はよく分かるのですが,少なくとも科学者Maryや哲学的ゾンビのような議論は的外れな批判としか思えないです。科学者Maryや哲学的ゾンビの発想には最初から「非物理的精神」の存在が前提されており,非物理を仮定して物理を否定するという,何の積極的意味も持たない論理命題を主張しているだけのような気がします。

仮にその批判がそれなりに妥当だとしても,二元論に付き纏う心身問題に比べれば,まだしも論難性は低いようにも思えるのですが…。ちなみに,現代の二元論者は心身問題についてどのような解決を見出しているのでしょうか? もし詳しい方がおられましたら教えて頂けませんでしょうか。


[qualia:2037]吉田
少なくともMaryの話は「非物理的精神の存在を前提」してはいないのではないでしょうか。もしそうならその点だけで論破できる話だと思います(同じ特性の現れ方の違い、なんて言わずに論点先取を突くやり方で)。

これらの思考実験の意義は、「クオリアに関する物理主義」の成立可能性についての反例を示している(かもしれない)ことにあるのではないかと思います。よってこれは「クオリアに関する物理主義者」の誰かが答えるべき問いではあると思います。ただし、これは村上さんご指摘の通り、代案を立てるのよりは弱いという意味で積極的意味に欠けるのかもしれませんが。

もし「クオリアの物理主義」の側に立つならば、相手が代案を出さないことを非難しても相手の理にかなった(もしそうなら)批判に答えたことにはならない。一方、どちら側にも与しないで、どちらの論が優れているかを考えようとするならば、批判ではなくて、どちらの案が優れているかが重要。つまり、どこに自分を置くか、そういうことですよね、きっと。

> 仮にその批判がそれなりに妥当だとしても,二元論に付き纏う心身問題に比べ
> れば,まだしも論難性は低いようにも思えるのですが…。ちなみに,現代の二
> 元論者は心身問題についてどのような解決を見出しているのでしょうか?

このsectionでも少し名前の出てきたChalmersはある種の二元論を立てているはずです。ただ、Chalmersはhard problemという言葉を広めたような人ですし、いわゆる二元論とは違っているようなんですが、よくわかりません。Web上にたくさん論文があって、興味あるのですが読めてません。


[qualia:2044]村上
> 少なくともMaryの話は
> 「非物理的精神の存在を前提」してはいないのではないでしょうか。
> もしそうならその点だけで論破できる話だと思います

原文&読ませていたsummaryに今一つ十分な理解が及んでない部分もあるので誤解しているかもしれませんが,「白黒の部屋に閉じ込められた人間が色彩研究の権威になる」という仮定は「哲学的ゾンビ」の仮定と同類ではないだろうかと思うのです。

白黒の部屋に閉じ込められていた時のMaryと屋外に出た時のMaryは物理的に同一(同質)であると前提されていると思います。その上で,物理的には質的変化が無いにも関わらず,体験には質的変化が起こると仮定している。その仮定には明らかに非物理的要素が既に持ち込まれているような気が…。

あるいは,原文の"Mary knows all the pertinent physical facts."などの言い回しが引っかかるのですが,もしかして,physical factsを「知っている」事とMaryを構成するphysical factsそれ自体が同一視されているのでしょうか?字面だけで解釈すると原文からはむしろそのニュアンスを強く感じるのですが,しかし,まさかそんな短絡的な発想はあるまいと思っているのですが…(^_^;)。


[qualia:2052]吉田
At 01:53 00/3/7 +0900, you wrote:
> 「白黒の部屋に閉じ込められた人間が色彩研
> 究の権威になる」という仮定は「哲学的ゾンビ」の仮定と同類ではないだろう
> かと思うのです。

そもそも「白黒の部屋に閉じ込められた人間が色彩研究の権威になる」が可能かどうかという意味では、summaryからはしょった本文で、Knut Nordbyという全色盲の視覚科学者の例を挙げています。また、「色の科学」(朝倉書店)を書いた金子隆芳氏はその本の一章(「ある色覚異常者の体験」)を使って自身の色覚異常について書いています。

が、しかし、そういうことではないようですね。やっと村上さんが言わんとすることが少しわかってきましたが、

> 白黒の部屋に閉じ込められていた時のMaryと屋外に出た時のMaryは物理的に同
> 一(同質)であると前提されていると思います。その上で,物理的には質的変
> 化が無いにも関わらず,体験には質的変化が起こると仮定している。その仮定
> には明らかに非物理的要素が既に持ち込まれているような気が…。

これはこういうことでしょうか。つまり、Maryは部屋にいた頃は脳が色を感じるとき特有の活動がなかった。そして、部屋を出た後、初めて、脳が色を感じるとき特有の活動をした。よって、Maryは物理的に同一ではない。Maryの脳の物理的状態が変わったのだから、Maryが新しく主観的状態を獲得するのに何の不思議もない。

ただ、部屋から出る前のMaryと出た後のMaryは物理的に同一であるとは前提していないのではないでしょうか。脳の活動が意識を引き起こしててもよくて、それでも、Maryには新しく知ったことがある。ここがこの「知識論法」のたぶんミソで、「色のクオリア」と「色の特性の物理的条件」の代わりに「色のクオリアを知っていること」と「色の特性の物理的条件を知っていること」を使っている意味があるのではないかと。

> もしかして,physical factsを「知っている」事と
> Maryを構成するphysical factsそれ自体が同一視されているのでしょうか?

ですので、Maryの話自体には「Maryを構成するphysical factsそれ自体」は関わってこなくても成立するのではないかと思います。(議論の流れから離れて率直に言うと、村上さんの考えには納得させられるところがありますが、この問題の解にはなってないのでは、というのが印象です。)

(ある種の)二元論の人としてChalmersを挙げましたが、これは私のいいかげんな知識ですので、(下のChalmersの著書"The conscious mind"のintroductionで少し言及あり)http://ling.ucsc.edu/~chalmers/intro.htmlもし興味ありましたら、他の方にコメントを求めてみてください。
村上さんの目的からすると、Maryの話を作ったJacksonがどう考えているのかのほうが重要かもしれません。おそらく、epiphenomenalismという形の二元論者です。(意識は脳の物理的状態によって因果的に生成するが、意識は脳の物理的状態に因果的に関わらない、随伴現象であるとするもの)


[qualia:2055]村上
> が可能かどうかという意味では、summaryからはしょった本文で、
> Knut Nordbyという全色盲の視覚科学者の例を挙げています。

原文を読み返してみたところ,確かに書いてありました。'achromotope'の意味が分からなかったので読み飛ばしてたようです。そういう人が現実にいるんですねぇ。凄い!

> 「色のクオリア」と「色の特性の物理的条件」の代わりに
> 「色のクオリアを知っていること」と「色の特性の物理的条件を知っていること」
> を使っている意味があるのではないかと。

なるほど,なんとなく分かってきました。根気良く御説明頂き,恐れ入ります(笑)そのへんを考慮して再度考え直してみます。

いろいろと文献の御紹介ありがとうございます。それらに目を通す前に安易な 意見を述べるのは早計かもしれないですが,意識が物理状態に因果を及ぼさな いという考えは唯物論以上に「自由意志」の論難を抱えそうですし,少なくと も物理状態から意識に対しては「因果」関係があるのならば,その関係を生じ させる(相互ではない)作用がある筈で,果たして物理系から作用を受ける系 を「非物理系」と見倣す根拠があるのかどうか疑問です。因果関係というのは 本質的に物理関係と同義だと思うのですが,それが相互ではなく一方通行だか らといって話が変わるとも思えません。


[qualia:2061]村上
> なるほど,なんとなく分かってきました。根気良く御説明頂き,恐れ入ります(笑)
> そのへんを考慮して再度考え直してみます。

…と言いましたが,いまいち「なんとなく」しか分かりません。とりあえず,原文の以下の記述に注目してみました。

> If what it is like for someone to experience red is one and the same as
> some physical quality, then Mary already knows that while in her room.

とりあえず,これが物理主義者を批判する哲学者(so-called `qualiafreaks')が前提している内容を表していることは間違いなさそうです。

問題は,ここで'physical quality'と呼ばれているものが,直接体験することなく獲得できると見倣されているところにありそうです。

先ず,qualia freaks(クオリア狂?(笑))が持ち出している論理は以下のように要約できると思います。

・Maryは白黒の部屋から解放された時に何か「新しい事」を知った
・物理主義に従えば,その「新しい事」も物理的特質である
・しかし,Maryは白黒の部屋において全ての物理的特質を既に知っていた
・従って矛盾が生じる

何ゆえ,白黒の部屋において全ての物理的特質を知ることができると前提され るのでしょう? ここで実に物理主義的考察を行なうなら,何かを「知ること」 もまた物理的特質ですから,白黒の部屋という物理的に制限された環境では 「知ること」も制限される筈です。従って,その「白黒の部屋」という物理的 制限が解かれた時に「知ること」の物理的制限も解かれることは至極当然であ り,何も矛盾はない。

つまり,qualia freaksは「知ること」もまた物理的特質であるという点を見 落としていると言えないでしょうか? 言い換えれば,背理法を適用するため に物理主義を仮定しておきつつ,その仮定に反して非物理的な「知ること」を 密かに持ち込んでいる(え,しつこい?(^_^;))

しかし直感的には,白黒の部屋においても確かに「赤」の物理的特質は全て知 ることができるような気もします。この直感的疑問に対する僕の考えを述べて おきますと,Maryが白黒の部屋において知ることができたのは,あらゆる「赤」 の物理的特質のうちの客観的側面に過ぎず,白黒の部屋から解放された時に新 しく知ったのは,「赤」の物理的特質のうちMary自身の脳味噌にintrinsicな 側面であるということです。つまり,「赤」の客観的側面として知られている 特定波長の光が,Maryの脳味噌と相互作用することによって初めて現れる物理 的特質,その物理的特質から更に派生して脳内に生起される物理的特質として の『「赤」を知ること』,これらの物理的特質は実にMaryの脳味噌に intrinsicであり,「赤」とMaryの脳味噌が出会うことがない白黒の部屋にお いては決して得られない(=知ることができない)でしょう。…などと廻りく どく書きましたが,物理主義にとっては極めて「当り前」で陳腐な見解ですか ね(^_^;)。


[qualia:2089]吉田
この辺について私は新しく言えることはもうないので神経科学者的発想でMaryの話にひとつコメントします。

生まれたときから縦線だけを見させつづけたネコでは、大脳皮質に横線に反応する神経細胞がなくなる、という有名な話がありまして、Maryも生まれたときから白黒の世界で育っているので、きっと色に反応する神経細胞が無くて、部屋の外に出ても色を感じることは出来ない。よって、Maryの話は本当にはありえない。以上。

なんつってもちろんこれで話にけりがつくわけではなくて、要は、この話はネーゲルの「コウモリであるとはどういうことか」の改良版のようなところがあるのだと思います。つまり、コウモリが音波をどのように感じて飛行しているかについて物理的知識をどんなによくわかったところで、コウモリのクオリアを人間が理解することは出来ない。この話で、コウモリにクオリアがあるかどうか疑わしいところを改良したもの、と考えられるのではないかと。
Maryの話も、意識が非物理的なものであるという話よりは、意識を本当に物理主義的に説明しきれるのか、という問題をあらわしていると考えたほうがよいような気がしました。


[qualia:2091]村上
> Maryも生まれたときから白黒の世界で育っているので、
> きっと色に反応する神経細胞が無くて、
> 部屋の外に出ても色を感じることは出来ない。

これは現実的な説ですね(^_^;)。さらに現実的な線としては,Maryが鼻血を出して実験が台無しになる可能性も。"So, that is what it is like to experience red"とか言ってる場合ではない。

> Maryの話も、意識が非物理的なものであるという話よりは、
> 意識を本当に物理主義的に説明しきれるのか、という問題をあらわしていると
> 考えたほうがよいような気がしました。

問題を楽観視しすぎている物理主義者の慢心が批判されているのかもしれませんね。

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