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■ ひさびさに「思想」っぽい本を読んでる
この夏の期間にしばらく読んでなかった系統の本を読んでる。「ニッポンの思想 増補新版」佐々木 敦、「訂正する力」東浩紀、「訂正可能性の哲学」東浩紀、「庭の話」宇野常寛、「動きすぎてはいけない」千葉雅也、「センスの哲学」千葉雅也、「亡霊のジレンマ」カンタン・メイヤスーなど。
「行為する意識」を書いた今だからいろいろ繋げて語れることが出てきた。
たとえば東浩紀の「訂正可能性」って、エナクティヴィズムにおけるセンスメイキングだな(「行為する意識」IV章 現在から過去へ、意味づけする意識」)とか。
自分の「思想」の履歴についてまとめておくと、自分は90年代にはサブカルとして、別冊宝島とか(小林よしのりと組む前の)浅羽通明とかそういうのを読んできた。東浩紀についても「存在論的、郵便的」からゼロ年代までの著書と活動は追ってた(はてな村民として)。
宮台真司の書くものについても90年代くらいまでは追っていたけど、けっきょくルーマン的なシステム論に興味が持てなかった。
オートポイエーシスを河本英夫的にマトゥラーナ側から読むのではなく、ヴァレラ側からエナクティヴィズムと現象学に繋げて読んでいった、これがゼロ年代以降に自分が神経科学者をやりながら並行して進めてきた孤独な作業だった。(それをブログに出力したことが後で役に立ったのだけど。)
ひさびさにこのへんの本を読み漁りだしたけど、それは先日の池上高志さんとの議論から始まった。
昨日は、北大のCHAINの吉田先生に、講義をしてもらった。最後のところで、力学系回帰みたいな話になって、大議論に。
— takashi ikegami (@alltbl) June 25, 2025
恒例の駒場講義(池上高志さんが今年で退官なのでこれが最終回)で、「行為する意識」について紹介しながら、最後の締めで、「現在の神経科学ではRNNを使って力学系を再現する試みが流行っている。それは神経現象学を推進してゆくうえでも有効だろう」という話をしたら、池上さんがそれに激しく反論したというわけ。(この内容についてここでは深堀りできないが、私の中でずっと考えが進められている)。
力学系に関してあともうひとつの論点は、「環境に全てがあるのだから、内面なんて必要ない」という池上さんの立場だ。それは「行為する意識」においては、補論2での「オートポイエーシスと生態学的心理学の統合」という論点に関わってくる。
ともあれ、池上高志さんの立場は「認知科学誌」の「生命理論としての認知科学:減算と縮約の哲学をめぐって」から一貫したものだと思った。それで、そこで参照されているメイヤスーの「減算と縮約」を読みはじめたのだった。
メイヤスーの論文はかなり厄介なもので、ベルクソンの「物質と記憶」を読み直すドゥルーズ+ガタリの「哲学とはなにか」をさらに読み直して、縮約なしの減算を考える、という筋になっていることまでは理解した。いわば記憶のない知覚を想定するということだ。反論したい気持ちを抑えて、まずは理解を試みた。
しかし、これはベルクソンから理解しないと始まらないわけで、とりあえず千葉雅也の本とか、周辺から攻めてゆくことにしたのだった。「動きすぎてはいけない」では思弁的実在論について整理されている部分があるし、「センスの哲学」では自由エネルギー原理についても言及してる。
このへんはやれることはいろいろありそうなのだが、とりあえず宿題として積んである。
佐々木敦氏がXで「行為する意識」に言及してた。
吉田正俊、田口茂『行為する意識:エナクティヴィズム入門』を読んでるが抜群に刺激的かつ啓発的。田口氏の筑摩叢書『現象学という思考』と圏論を専門とする西郷甲矢人との共著『〈現実〉とは何か』が面白かったのと、エナクティヴィズムという耳慣れないワードに興味を惹かれ。なんか元気が出る本。
— 佐々木敦 (@sasakiatsushi) July 14, 2025
上記の通り別ラインで千葉雅也を拾い読みしていたこともあって、ちょうど良い機会だったので、「ニッポンの思想 増補新版」佐々木敦を読んでみた。浅田彰から東浩紀へ、そして増補版での千葉雅也、國分功一郎への流れを整理することができたのでよかった。
「行為する意識」をこのような「思想」の流れにむりやり配置すると、宮台のシステム論の親戚に見えるし、身体性の強調や田邊元への言及とかから京都学派の子孫に見えてしまうかもしれない。しかしそれを予測的処理のような現代のAI的な知見と繋げてアップデートしたうえで、あくまでの意識の理論として作り上げているところが「行為する意識」という本の特色。
この本のパンチラインである「差異を消費する」というフレーズも、現代思想的な観点からは決して目新しいものではない。それをちゃんと現代の神経科学の水準に接続しているところに「行為する意識」の強みがある。(というかそこがこの本で、自分がいちばん労力をかけたところ。)
いわゆる「思想」はポモ(というかドゥルーズ)が前提なので、そこにつなげようという野望はない*。といいつつ、平井さんの本経由でベルクソンを理解して、ドゥルーズまではたどり着きたいと思う。でもベルクソンの「イマージュ」が飲み込めなくて、その段階で(30年くらい)停まってる。
(*だから、「行為する意識」での「差異」はドゥルーズの「差異」とは直接関連してない。これはむしろベイトソンの「difference that makes a difference」が由来なのだけど、じつのところ、この言葉はベイトソンではなくDonald MacKayに帰するべきものだ。そして「行為する意識」では「情報」という概念をなるたけ避けて書いているので、このあたりについては踏み込めなかった。自分はベイトソンから大きな影響を受けているのだけど、いまベイトソンをどう評価するかということについてはいつか別途まとめておきたいと思ってる。ベイトソンの議論にありがちな、ダブルバインドでもなく、違いを作る違いへの言及でもなく、「「分類」から「過程」へ」の先を考えることにこそ意義がある、とここに書きつけておく)
「行為する意識」で展開したエナクティブな視点というのは、けっして「意識の科学」に限定した問題ではなくて、具体的な社会問題と関わっている部分がある。
エナクティヴィズムを始めたヴァレラはチリでアジェンデ政権のサイバーシン計画*を推していた。だから軍事クーデターでヴァレラはチリから亡命することになる。
(*サイバネティックスのスタフォード・ビアが先導し、その精神的始祖はウィノグラードとフローレスの「存在論的デザイン」)
この「存在論的デザイン」はエスコバルの『多元世界に向けたデザイン』に継承されて、さらにそれはオードリー・タンの「多元性 PLURALITY」につながる。
宇野常寛の「庭の話」も読んでるところ。とりあえず著者の解説を頼りに、全体を飛ばし読みした。
「庭」の条件としてもっとも重要なものに「人間を「孤独」にすること」を置くところとか、「庭」の究極に戦争がするという議論の限界を提示したうえでさらにその先を考えるとか、議論の運び方に対して全体的に好感度が高かった。(へんな言い方だが。)
宇野常寛のデビュー当時に「ゼロ年代の想像力」には興味を持ったものの、「セカイ系から決断主義へ」みたいなあらすじを見て、あと回しにしていた記憶がある。
というわけで、ちゃんと時間かけて読み進めてみようかと思う。
あとこれも読まなくては: 「目標という幻想──未知なる成果をもたらす、〈オープンエンド〉なアプローチ」
「行為する意識」では「オープンエンド性」という言葉をなんどか使ったけど、ちゃんと原典を抑えるという意味では、ちょうど翻訳が出たこの本を読んで理論武装しておく必要がある。
というわけで、来週から始まるCHAINのサマースクール2025はテーマが「生命と言語進化の構成論」。
講師の一人はさきほどのWIREDの記事の著者の一人の岡瑞起さん。岡さんには「AIとの共創:Open-endednessとOrganic Alignmentが拓く未来」というテーマで、まさに『目標という幻想──未知なる成果をもたらす、〈オープンエンド〉なアプローチ』で取上げられたテーマについてお話しいただく予定になっている。
(書き始めたときは宣伝のつもりではなかったが、意外にも話が繋がった。)
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- / 投稿日: 2025年08月14日
- / カテゴリー: [吉田+田口「行為する意識: エナクティヴィズム入門」]
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