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■ さうして、このごろ 20121129

長女は夜更かしして手芸かなんかやってる。わたしは布団に入ってスライド作ってる。次男は寝相が悪いのでそっと押しやる。こうやって夜が更けてゆく。

ラップトップのACアダプタを家に忘れてきてしまった。なんど同じ過ちを繰り返すというのだろう。そう、これは習慣を変えるためにはどうすればよいかという、太古の昔よりわれわれ人間につきまとう構造的問題なのだ。(<-さっさと家とラボ両方にACアダプタを買って設置しておけ)

「止(と)める」「止(や)める」問題シリーズ、「床(ゆか)」か「床(とこ)」かってのもあったか。「川床料理」とか。こういうのが気になる。(<-人生もっと大事なことがあるからそういうことを気にするべき)

「涙は心の汗というがの、あれは逆での、体を動かすと体が悲しみ、涙をたくさん流すというわけでの」 (<-いんちき聞き取り調査風)

総武線の車内広告で「gabaだけは許す つかかなり認めてる」みたいな文面があって、みんないろいろたいへんなんだな、と世界に向けてなんだか優しい気持ちになった。


次男と城西高校まで「ふれ愛ときめきフェスティバル」に行ってきた。グレート家康公「葵」武将隊が来ていて、チャンバラが好きな次男は見入っていた。曲調が仮面ライダー/スーパー戦隊だったんで、なんか通底するものがあるんだなと面白かった。じっさい次男は「侍戦隊シンケンジャー」が好きだった。

木工ミニカー競争で惨敗したのが悔しかったらしく、帰りの車でずっと敗因を探していた。タイヤとシャフトの大きさが合わなくて直進性が悪かったんだよと教えてやった。案外細かく理知的であった。


図書館に本を返しに行く車で、iTunesの選曲からエレカシの「歴史」が流れてきた。これまでに幾度となく聴きながら歌ってきた曲だが、今日初めて歌詞の意味を実感して、涙が止まらなくなった。

「栄達がのぞめなくなる」「肩の荷が降りたのだろうか」「死に様こそが生き様だ」こういった歌詞をまあ、意味は分かったつもりいたし、「死に場所を見つけるんだ」という言葉には共感していた。それでも、ちょっと他人事みたいに聴いていて、森鴎外を出してくるところにはファニーささえ感じていた。

でも、まあそういうんじゃないんだなってことは分かったし、なんというか浄化された思いだった。


「世界を火の海にする」なんて言われても、心に響かない。ならば「世界を火の海にする」とはどんなことか、時間をかけて想像してみることにしよう。そこは「悲しみで涙が涸れた」り「三十年来の復讐を果た」したりということのない世界だ。

「どこ吹く風」ってあらためていいフレーズだな。自然に日常会話の中に忍び込ませてみたい。

「この窓から見える矢作川へと沈む夕日を見ることが出来さえすれば、僕は楽園にいるのとおなじなんだ。」

「ちくしょー、おれはまだやれるぞー」(<-不可視境界線のむこうに引きずり込まれる様子)


次男とだらだら遊んでる。「うらにわにはにわ、にわにはにわ、にわとりがいる」を理解させることに成功した。つぎは「わたしたわしわたしたわ」をどのくらい速い喋られるか特訓。

次男がごっこ遊びで「これがにくであるとします」と仮定を持ちだしたのでなんだか面白くなった。

次男がずっと「わたしたわしわたしたわ」で替え歌作ってる。プーさんみたいで楽しいので静観している。


次男を連れて、刈谷市中央児童館「はばたき」まで車で40分かけて行ってきた。卓球とバスケットボール。

次男はフォアはなかなか鋭いのを返すのでけっこう試合が成り立つ(10対5とか)のだが、バックハンドを攻略したいらしく、今日はなるたけバックに玉を集めるようにと要求。向上心のあるやつだ。


いつの日か、いろいろ回り道はしたがやってきたことは間違ってはいなかったと言えるような日が来たらよいと思うのだが、どちらにしろそれを認めるのも認めさせるのも俺自身だ。いまはまだ人生を語らず、ただ生き延びていることを根拠に、まだすべてが終わったわけではないと言いきかせるしかない。


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