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■ 赤ちゃんであるとはどのようなかんじか?
(20120901)「哲学する赤ちゃん」(アリソン ゴプニック)を図書館行って借りてきた。因果推論の話はいちばん初めの章「子どもはなぜ「ごっこ遊び」をするか?」のところで、子どもが反実仮想をすることに重点を置いているようだ。
あと、第4章のタイトル「赤ちゃんであるとはどのようなことか?」は"What it is like to be a baby"の訳だと思うけど、毎度ながらわかりにくい。「どんなかんじか?」とかにしてくれないと意識経験という一人称的な話であることが伝わらないと思う。
Alison Gopnikは、Ned BlockのBBSの記事へのコメントで、「赤ちゃんは我々大人よりももっとconsciousである」なんて言ってる。
つまり、赤ちゃんはボトムアップ注意はあるけどトップダウンはないのでサーチライトのような注意を使わずに全方位の(たとえば視覚の)刺激を経験している、だから「よりconsciousなのだ」という議論。ほんとか?と思う。全体的に薄められる、周辺視みたいな経験になるんじゃん?と思う。
あと、ボトムアップでもサーチライト的に注意は向く。というかそれがサリエンシー・マップだから。というわけでいろいろつっこみたいところはあるが、ともあれ赤ちゃんでわかったことと動物でわかったことを並べて考えるというのは基本なので読みながらいろいろ考えてみることにする。
眼球運動を使って、解像度の高いfoveaの部分を動かしながら統一性のある視覚像を造るという過程があって、それを赤ちゃんがどうやっているのかというのには興味があるが、そういうことをやろうとしている人はいくらでも居るだろうから、なんか自分の強みで出来ることはないかと考える。
そもそも眼球運動によって別々の網膜像を「統合する」ってなんだろう? 統合して一つの絵を作るって考え方自体はカルテジアン劇場のヴァリエーションなので、そんなことしてないって話になるかもしれない。計算論的には眼球の位置の情報を持って解像度の良いところだけ貼り合わせるとかは可能だろう。でも、貼り合わせないで、とにかく行動に使えれる分だけread-outしていると考えた方が尤もらしいのではないだろうか。ともあれこれはempiricalな問題だ。