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■ トラルファマドール星人と永劫回帰

「スローターハウス5」は2/3くらいまで来たが、意図せずカラマーゾフの兄弟と繋がってきたので、この偶然の一致に感激したが必然だとは思わない。(スローターハウス5のテーマとからむネタ。) トラルファマドール星人が「あなたの人生の物語」と繋がるのはあらかじめ知ってた。

"He said that everything there was to know about life was in the Brother Karamazov ... "But that isn't ENOUGH any more", said Rosewater."

さらにまどマギやエンドレスエイトと絡めているのを見つけた。なるほど、ループものと自由意志とトラルファマドール星人的視点(すべてを永遠の相の元に眺める)で三題噺ぐらい作れそうだ。

わかったような顔をして「永遠の相の元」とか書いたがスピノザとか読んでいるわけがない。


「来世に託す」という考え方を完璧に打ち砕くために、「来世はあるけれども、今生とまったく同じものが繰り返されるだけである」というふうに認識したらどうだろう? この人生を生きるしかないなって気がしてこないだろうか? ていうかそれ永井均経由で俺が受容した永劫回帰をさらに転倒させたものか。

もしくは、記憶の持続とかそういうメカニズムがまったくないループもの。ゆえに、やり直ししてもうまくはならない。カタルシス無し、神の視点無し。

たとえ輪廻転生があったとしても、ふたたび1968年の公害と騒音と地盤沈下の町まで引き戻されるのだ。校内暴力とツッパリハイスクールロックンロールの時代を生き延びて、バブルを横目で見て、ふたたび入院したり、交通事故にあったり、耳を七針縫ったりするのだ。


トラルファマドール星人にはすべての時間の事象が一挙に見渡せるので、つらい事象に対してはただ無視するだけだ。つまり、空間的注意と同じような意味で「時間的注意」とでも言ったものを備えているということになる。

こういう眼で見直すと、arousalレベルの上げ下げというのは不完全ながら時間的注意の一種であるといえる。focal attention (空間/featureへの注意)とsustained attention (arousal)という注意の分類は空間と時間の違いであると言える。

"I was still alive somewhere and always would be."

あるとき俺は1000分の1、あるとき俺は1分の1、統計的な俺と実存的な俺。


スローターハウス5読了した。よかった。トラルファマドール星人的描写に慣らされて、静かな心でイベントが描写されるのを眺めてゆくところで、ついにドレスデン空襲が描写される。ちょっと他にはない感覚だ。そして、そのような状況になったら、そのように世界を眺めるような気もしてくる。

ヴォネガットの「乾いたユーモア」みたいなものは正直好みではなかった。ブローティガンの「アメリカの鱒釣り」も同じくだめだった。でも「西瓜糖の日々」が大好きだったように、「スローターハウス5」の静謐な世界は好きだ。たぶん「乾いたユーモア」ってのはそれを引き立てる効果があるのだろう。

つーか、スローターハウスとかギャツビーとかライ麦畑とか、向こうの高校生の課題図書みたいなのばっか読んでる俺ってのはバカみたいに見えるのだろうか? まあいいや。


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