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■ カポーティとかグラースサーガとかブローティガンとか読んでます
ども。元気です。論文コメントは進まず。
「ロング・グッドバイ」とか「グレート・ギャッツビー」の村上春樹訳とか読んだあたりからアメリカ文学にひさびさに回帰中です。あ、作品について言及するんで、ネタバレ有り、と書いておきます。
トルーマン・カポーティはオザケンつながりで(「犬は吠える」ね)、大学生の頃に原書まで買って気合い入れて"A Christmas Memory"とか読んだりして、いいかんじだったんだけどそれに入ってた"Breakfast at Tiffany's"にはたどり着けず放置。で、ついにあきらめてこのお盆に訳書で読みましたが、よかったです。ストーリー的には、わたしバブル世代なもんで恥ずかしながら、つい東京ラブストーリーのリカ(原作コミックの方ね。ドラマは知りません)とか想起してしまいましたけどね(いや順番逆だから)。訳が古くさいんで新訳が出るといいんではないかと思いましたけど、さっそく原書へ。もう50年前のものだから元の文章も古くさいんだろうけど("phony"とかね、Frank Zappaの歌詞とかでしか聞かないような)、表現ひとつひとつが読んでて楽しいです。つぎは「冷血」へ行けば映画の「カポーティ」が楽しめそうなのだけれど、私が好きそうなのは初期の方(まさにオザケンってかんじのこういう写真の時代ね)かなということで、「遠い声、遠い部屋」を選びました。まだ読んでるのはじめの方だけど、素晴らしいです。車のガラスのひび割れを「星が破裂したみたいな」みたいに表現したりとか。南部を舞台にしたものは前にフォークナーの短編とか読んで気が重くなっちゃったので向かないかなと思ったけど、意外にいけそう。
あと、佐藤友哉つながりでサリンジャーのグラースサーガを。「ナイン・ストーリーズ」は読んだはずだけど、もう忘れた。「フラニーとゾーイー」から。「フラニー」いいかんじ。こう、かみあわないかんじが良く書かれてます。解説書とか読んでると、レーン(Lane)を落としてフラニーを上げるような書き方をしているけど、フラニーの中にもレーン的な要素はあるし、ことさら貶めるようには書いてないと思うけどなあ。そもそもそんないい者悪者みたいな読みは「だれもがふとっちょおばさん("FAT LADY")だ」という啓示を踏まえていないと思うんだけど。
「ゾーイー」のほうはバディのもったい付けまくった文体にうんざりして断念しかけたけど、最終的には良かったです。わたしの読みが正しいかどうかわからないのだけれど、あの「FAT LADAYとは**(いちおう消しときます)のことなんだよ」というゾーイーの発言は本人も知らなかった、その場でひねり出した(シーモアとバディの力を借りて)、言葉だったんではないでしょうか。あらかじめ知ってたキメ言葉なんかじゃなくて。なんかわたし自身の人生の大事なタイミングでどう行動したかとかを反芻しながら考えるに、そういうものだった気がするんです。ゾーイーは言ったあとには「決まった!」とか思ったかもしれないけど、それをひねり出してくる過程はそれまでの、饒舌でなにもかもをダメにしてしまうところからほんのひととき離れることに成功していたのではないか、って思うんです。あー語った語った。
というわけでかなり楽しめたので、勢いづいて「大工よ、屋根の梁を高く上げよ シーモア-序章-」も購入。「ナイン・ストーリーズ」も原書で"A Perfect Day for Bananafish"とか読んでみました。でも、最後の方の"Hey!" "Hey, yourself"とか原文で読んでもニュアンスがわからんのでけっきょく訳書を頼ることに。英語英語。
図書館で「サリンジャー―伝説の半生、謎の隠遁生活」中公新書を読んだけど、なにこの上から目線。サリンジャー好きでないなら書かなけりゃいいのに。かなりがっかり。
というわけで、だれか本田透方式(バッファロー'66や宮沢賢治に非モテ主人公を当てはめて読む)でグラースサーガを捉え直すべきですよ。もしくはBananafishのSybilの会話を麻枝/久弥風にアレンジとか("Hey"=「わっ、なにするんだよっ」みたいな)。すでに「フリッカー式」でやってるってオチは無しで。……ぶっこわれてきたことを認めます。
あと、ブローティガンね。これまた大学生の頃に「ロンメル進軍」(高橋源一郎訳)とか「西瓜糖の日々」とか読んですごくよかったんで、原書で"Trout Fishing in America"と"In Watermelon Sugar"の合冊っつうのを買って持ってたんだけど、これも積んだままで。んで訳書で「アメリカの鱒釣り」がついに文庫化したのでさっそく読んでみたけど、さっぱり読めない。断念。なんか、こういうアメリカ風ユーモアみたいなのはダメみたい。もしくはこういうのが読めなくなっただけか、と「西瓜糖の日々」を再読してみたところ、こっちはイケる。かなりすばらしい。この独特の世界、すごく静かなのに常に不安に脅かされている。どこか現世ではないかんじ(近未来というよりはこの世でないかんじ)、にすごく惹かれたのだとわかりました。ようするに「えいえんのせかい」ですよ。ってだから俺が本田透式読みをしなくていいっつうの。
そんなかんじでお盆休みと札幌で本を読んでました。