« クオリアについての「心の哲学」(1) | 最新のページに戻る | クオリアについての「心の哲学」(3) »
■ クオリアについての「心の哲学」(2)
Stanford Encyclopedia of Philosophy---Qualia 2節(Tye, 1997)より:section II. どの心的状態がクオリアを持っているのか
私が個人的にクオリアを持つと考えているもののリストには,五感(ex.視覚・聴覚),身体感覚(ex.痛み・熱さ),感情(ex.喜び・恐怖),ムード(ex.躁・鬱)が含まれる。
他にリストに加えるべき心的状態があるだろうか? G.Strawson(1994)は,文章を理解したり何かを突然考え付いたり思い出したりする思考体験があり,それは感覚体験に還元できない形でそれ自身のクオリアを持つと主張している。しかし,その見解は論争の的である。文章理解における現象的側面は言葉のイメージからくるところが大きい。文章を読むことによって生じる「心の中の声」のイメージや映像感覚,それから受ける印象や感情を全て取り去ったとき,そこには何の現象も残らないと言う人達も(私を含めて)いる。いずれにしろ,そのようなイメージは思考にとって不可欠ではなく,極めて無意識に行なわれる思考など,クオリアを持たない思考があることは確かだ。
[qualia:2001]村上
感覚(クオリア)を伴う強い欲望は,最初の段落の「感情」に含まれないのかな?と思ったりもしますが。
[qualia:2008]吉田
結局、「クオリアをもつのは、五感,身体感覚,感情,ムードであり、著者は思考には必ずしもクオリアを伴わないと思っている」というところですね。
思考からイメージや印象を取り除く、というけれど、この「イメージ」というやつは「五感,身体感覚,感情,ムード」には入らない感じがします。これはこれで扱うべき感じがします。
[qualia:2010]村上
そうですね。思考が言語イメージに依り,言語イメージがnative languageの詳細(発音その他)に依るというのは十分納得できるのですが,だからと言って逆に思考が全てsensory experienceに還元できるとも言えない気がするのですが…。ただ,
> "phenomenal"は「感覚」よりはもう少し広いところを指していると思うので
> 「現象」にしてしまいましたが、異論があるかもしれません。
これと関連していますが,原文で"phenomenal"と書かれている言葉の意味が問題なのかもしれません。もしかすると,phenomenonではない意識要素があり,思考の本質(つまり思考経験から五感・身体感覚・感情・ムードを取り去った後に残るもの)がそれに当たると考えているのでは…?
その場合,phenomenonの訳語となる「現象」は当然ながら主観的現象(現象学で言うところの現象?)ですが,しかし,最も狭い意味での主観から見た場合には一種の客観として扱われているように思えます。とはいえ,手元の電子辞書でphenomenalを引いてみると
> 1 自然現象の[に関する].
> 2 (思考直観によらず五感で)認知[知覚]できる.
となっており,特に「思考・直感によらず五感で」というあたりに注目するなら,著者の用語は実に的確だという気もします(^_^;)。
しかし,主観性それ自体を解明しようとする試みにおいて,(広い意味での)主観現象の内部に再び主観-客観の対立図式を持ち込むような考え方は健全なのか?という疑問が湧いて来るのですが…。それは,「主観の正体は何か?」という問題を無限後退させてしまうのではないかという危惧を感じます。
- / ツイートする
- / 投稿日: 2000年02月28日
- / カテゴリー: [クオリアについての「心の哲学」]
- / Edit(管理者用)