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■ 研究関連ツイートまとめ(2021年1月)

The New York TimesによるJohn Conwayのライフゲームの記事。 初出を知らなかったけど、Scientific Americanのマーチン・ガードナーのコラム(1970)でJohn Conwayが送ったレターが紹介されたのが初出とのこと。(セルラ・オートマタ自体はフォン・ノイマンだから1940年代。)

なるほど!Varelaらによるオートポイエーシスの2次元セルラ・オートマタの論文が出版されたのは1974年で、たった5つの文献しか引用してないのだけど、そのひとつはこのGardnerのSci Am 1970の記事だった。1974論文内ではライフゲームの発展型とは決して言ってないのだけど。


病院で待っている間に「0と1から意識は生まれるか――意識・時間・実在をめぐるハッシー式思考実験」を読了したけど、思ったよりも面白かった。意識は情報処理ではなくて、それに付随する物質が必要」「時間と空間は実在しない」「エントロピーは時間対称」(渡辺慧)とか、ニコラス・ハンフリーの「内なる目」を参照した意識の社会説(他者の推定する必要から、自分を内的にモニタする能力が進化した)とか。細部はいろいろ納得いかないところもあったが、自分が面白うと思っている方向にいいかんじに当てはまっていた。

これをとっかかりに、いろいろ手を広げることができそう。あと、「時間とエントロピーと重力」とかあのへんを読みたくなってきた。

ここでの「エントロピーは時間対称」というのは時間tで水の中にインクの一滴が固まっている状態があったとして、t+Tでもt-Tでもどちらもエントロピーは高くなっているという話。つまり、スポイトでインクを落とすというような人為的なことをしないならば、たまたまtでインクの一滴が集まった瞬間を見たということを想定しているようだ。

それで連想したのが、カウフマンの本にあった「束縛条件」だった。火薬の爆発を砲弾の移動という仕事に変えるためには、大砲の筒が必要というやつ。同様に、インクを垂らすとか、二重スリットを用意するといった人為的な操作がかならず関わっていて、そうでない場合、「たまたま時間tでインクの一滴が集まった瞬間を観測した」というようなものすごい偶然に身を任せないといけなくなる。まだ言語化できてないけど、「人為的な操作」というのが入ることで、因果とかややこしい話になるのではないかと思った。


「〈こころ〉はどこから来て,どこへ行くのか」 下條さんの章を読むつもりが、中沢新一の章が予想外に面白かった。ハイエクの「感覚秩序」を引いて脳と心の関係を「直接的な因果関係ではなく、構造に関する情報を運ぶ作用をするものを媒介にしながら、つながりあっている」とあり、ホモロジーや圏論にも言及している。中沢新一は読んだことがなかったが、ポスト構造主義から来てる人だから、こういうことは言うかも。ハイエクについても経済での「自生的秩序」に連なる精神の理論を持っていたことに興味を持ったので、次は「ハイエクの経済思想」を借りてくる。


The world is not a theorem スチュアート・カウフマンの新しい論文。生物の進化における多様性を作る方向は(数式などによる)形式化はできない、というこれまでの主張を、アフォーダンスの定式化という側面から議論したものっぽい。


「生命と自由」渡辺慧を読んでいたら「人間の眼は、一つ二つの光子も感じることが知られている」(p.186)というくだりがあって、昔勉強会でこれについての章を読んだ覚えがある(たぶんこれの51章)と思ったが、ソースが見つからなかったのでググってみた。

そしたら、二択で正答率55%くらいで弁別できるって論文が見つかった(Nature Communications 2016)。そこで引用しているもので、この世界の古典的な仕事として、Hecht et al 1942では光子5-8個が閾値、とある。

さらに調べてみたら、乾先生の「光覚の生理学的基礎」 (1981)というのを見つけた。今日はここまで。


つか、二重スリット実験を人の目をセンサーにしてやれば、同じ人の両目に分けて入れるのと、別々の人の片目ずつに入れたときとの違いを考えたらなんか意味があるのでは?とか思って調べ始めたのだけど、自分で言ってて、どういう意味があるかよくわからない。


「生命と自由」渡辺慧読了した。最終章、なんかすごいこと書いてある。熱力学第二法則が当てはまる世界でエントロピーは増える方向に行くので、ある時間よりもあとの時間のほうがよりマクロ的に見て同じ状態に収束するという意味で決定論的であり、因果的である=生命を後ろから後押しする。

いっぽうで、生物の一部はエントロピーを下げる方向に進むが、こちらはある時間よりもあとの時間でどのマクロな状態に進むかがわからないという意味で非決定論的である。ぎゃくにある時間からさかのぼってどういうマクロな状態から現在が帰結したかは予測できる。これを逆因果的過程と呼んでる。

そして人間における価値、目的論というのは(因果律が生命を後ろから後押しするのとは逆に)生命を前から引っ張る(p.196)。だから、生命というのは「自由という価値の追求」なのだと(p.198)。

これはさっき書いたカウフマンの「生物の進化における多様性を作る方向は形式化はできない」に対する答えになっている。つまり、時間を進める方向への予測をしようとするなら、それは不可能。でもその時点を引き起こした原因、価値を見つける逆因果律の方向は形式化しうる。

もちろんこれを読みながら、ずっとエントロピーのところを自由エネルギーに置き換えながら考えてた。自由エネルギー最小化の元で、同じ状態に収束していくわけではなくて、多様化してゆく(進化でも、個体でも、社会でも)ことを、渡辺慧の言う逆因果的過程、もしくは「目的論の部分的復権」ということで考えられないか?というふうに読んでいたというわけ。

「逆因果的過程」と言われると面食らうけど、期待自由エネルギーの計算で、(不確定な)将来の観察から遡って現在する行動選択を確定させるというのは、逆因果的過程でいう原因帰属的な操作をしているようにも読める。

そうしてみると、将来の観察(それはすべて列挙することが不可能な隣接可能領域)から遡って、現在の観察と行動の「尤度」が決まることのほうが本質であるように思う。


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