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■ 岡崎って日本のどこにあるんすか?
生理学研究所、通称せいりけんは名鉄東岡崎駅前の丘の上にあって、地名としては明大寺町西郷中となる。研究所が出来たのは1977年、敷地としてはここはもともと愛知教育大学があったところで、敷地の駐車場の脇にはいまでも昔の門とおぼしきコンクリートの残骸がある。
Wikipediaによれば、愛知教育大学はかつては愛知学芸大学の岡崎本部と名古屋分校とに分かれていて、それぞれ元は愛知第二師範学校と愛知第一師範学校だったのだが、両者を合併する際に間を取って(取るなよw)、刈谷に移転することになったのだ。
生理研から西向きに坂を下ると愛知教育大学附属岡崎中があって、ここはかつて岡崎高等師範学校といってまたべつの学校の敷地だったのだが、後述する岡崎空襲で焼けてしまい、またすぐに豊川に移転してしまった。
愛知教育大学附属岡崎中に隣接して市立竜海中があって、さらに狭い坂を上りきった敷地は私が岡崎に来た頃からずっと、住宅街の中ここだけ草ぼうぼうの空き地であって、私はそこから夕日を見下ろし、「存在の裂け目」というラカンぽいあだ名を付けて悦に入っていたのだが、ついに最近工事が始まり「存在の裂け目」はあっという間に消え去ってしまった。
そこからまた研究所に戻る道を歩くと今度は岡崎高校の前を通ることになる。そんなわけで、このへんは文教地帯なのだった。もうすこし進むと右手に岡崎コンファレンスセンターがあって、ここで生理研研究会を開催してきた。そこからさらに右に折れると市立三島小学校が見える。
岡崎図書館の資料を見るかぎり、三島小学校はもともと明大寺西郷中、つまりいまの生理研の敷地にあったのだが、戦災で移転して空いたところに愛知学芸大学の岡崎本部が入ったということらしい。
現在の三島小学校を通りすぎると統合バイオサイエンスセンターに到着する。10年ほど前くらいまでは統合バイオの敷地は愛教大のグラウンドという名義で空き地になっていて、そこでわたしはまだ小さかった長男と凧揚げしたものだ。わたしが結婚してすぐに入居したアパートはこのグラウンドに面していて、子どもたちがこのグラウンドで遊んでいるのを部屋から見下ろして確認することができた。ってことで岡崎文教地帯の歴史散歩を終了します。そして寝る。
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…寝ない。そして回想が始まる。生理研に来たばかりにはヘビが道ばたにいるのを見たこともあるし、夜ともなると守衛所のところにタヌキが現れたりしたものだ。どちらもここしばらく見ていないな。守衛所の前ではたまに天気のいい日など、仮眠用だろうか、布団を干していることなどあって微笑ましく通り過ぎたりする。
ただいっさいが通り過ぎ、同じ頃赴任した人がすっかり白髪まじりになったり、我が家でも長男は来年はいよいよ竜海中に入学で、もう岡崎に15年も居るということに気づいて愕然としたりする。
回想は続く。東京から離れてはじめて一人暮らしをするために、近くに墓地とダイエーのある宮下ハイツに入居して、まだ自転車もなくて、ジャスコで買い物してたくさんの荷物を抱えて、流しのタクシーを捕まえようとしたがぜんぜん捕まらず、えらく心細い気持ちになった。東京と違ってタクシーを捕まえるためにはタクシー会社に電話をかけて呼ぶ必要があることをわかっていなかったのだ。
結婚するまで結局車は買わず、つまり、車というものは人間が制御できる能力を超えたものであり、家族のため以外は乗るべきではないというのが当時のわたしの持論だったのだが、そんなわけでいつもママチャリのカゴを満タンにしてふらふらと漕いでいた。
まだおおらかな時代で研究所は館内禁煙とはなっていなくて、ニコチンが切れた俺は実験室から出ると廊下でたばこを吸っていたのだった。非常階段に出て、鳩の糞が降り積もっている場所を避けて階段に座って喫煙していると、上の階から森先生が現れて(というか捕まって)、一緒に連れタバコしながらお話をしたりとか、実験室の前の廊下にはソファーがあってそこで仮眠していて、通りがかった松山先生を驚かせたりとか、なんだかそんなことを思い出しては書き連ねる。
Wikipediaを漁る。東南海地震 1944年12月7日にひきつづき、三河地震 1945年1月13日、こちらは直下型で西尾市あたりを中心にしてたくさんの方が亡くなっているのだけれど、戦時中だから記録が充分残されていない。いまでも三ヶ根駅から形原温泉のアジサイ寺に行く道の途中で断層の場所の標識があって見に行くことが可能だ。
さらにそのあと1945年7月19日未明から20日が岡崎空襲。これによって先述の岡崎高等師範学校は開校前に焼失した。このあとの復興からこのあいだの伊賀川の水害の話まではつながっている。詳細は言うまい。
ともあれあの水害のあとの数年ですっかり移転がすんで、堤防は整備され、ウソみたいにきれいになった伊賀川は親水公園となって、岡崎総合図書館(例の事件の「りぶら」)から見下ろすことができる。親水公園の川はもう水がちょろちょろとしか流れていなくて、飛び石で川を渡れるようになっている。俺はそこを自転車を担いで渡り、凍えながら「あなたの人生の物語」を読み、日が暮れるまでそこにいた。このへんで終了とします。
ということをtwitterに書き連ねたんだけど、そのときはtwitterという今を記録するメディアでなぜか唐突に走馬燈のように昔のことを回想し出すという着想が気に入ってた。そこでなぜか醸し出される哀れなかんじというのを定着させたくてブログにまとめ直してみたのだけれど、調べ物していろいろ書き足していたらなんだかそんなニュアンスが薄れてしまった。なんだか退職した人が半生記書いたみたいだ。そういうつもりじゃあなかったんだけど。いまはまだ、人生を語らず、ですよ(<-なにをいまさら)