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■ 「本音ベース」と「体裁ベース」
(20231022) 「就活に苦しむインテリの学生に社会の真実を教える」 このブログ記事が面白い。
私は大学教員として、逆向きからこの事象を語ることができる。つまり、教育の場面で、本音ベースで哲学的に突き詰めてほしいところで、体裁ベースで対応されて消化不良になる、という話。具体的な場面を書くことはできないけど。
「よく会社の人が「大学の人は世間をわかってないから」って言うけど、その世間とは会社での常識であって、大学の人だって大学という世間で生きてるのだ」なんて議論がある。
これで会社の人を説得することができないのは、まさにこの記事にあるような「体裁ベースでの一貫性を重視する」というような感覚を満足させられないからだと思う。
たとえば大学の人はそもそも論とか事態の本質とかを議論したがるが(わたしもそう)、体裁ベースでは、それはイマココの問題を解決しない。
これは大学の財政問題への社会人からの冷ややかな目にも直結している。「そもそも教育とは云々」では「集中と選択」が持つ難点を説得できない。そうではなくて、「イマココの問題を解決するためには、集中と選択はまずい選択」という方向の議論が必要。
ちなみに元のブログ記事で言ってることは「本音と建前」の語で長らく語られてきたものだと思う。でもそれを「テイ」という言い方をすることで、テイの内部での一貫性が要求されることを強調したところに価値があると思う。