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■ 「ココロのプログラム」最終回まで読んだ

(20231017) 「ココロのプログラム」の最終回は安直な終着点にはならなくてよかったと思う。(八足す一のエピソードをはじめが思い出したりはしない。)

それでも違和感はある。主人公(九)のセリフ「どうやらこの世界はそういう風にプログラムされているらしい」でタイトルが回収された。(プログラムされていたのはいちこだけでなく九も同じということ。)

もしここが「どうやら僕は〜」となり、九が自分の気持ちを諦観とともに表現していたのなら、成長の証拠で話が閉じられただろう。しかしバッドエンドを繰り返す方向性が、希望のある筆致で表現された。それを納得させるだけの描写が欠けていると思った。(コメ欄の炎上も動機は重なってる。)

この漫画でのアンドロイドの扱いは、あくまでも二人の間に障害を作るためのギミックとして導入されているだけで、設定は練り込まれてない。それが証拠に、いちこが感情を理解できないことが二人の間にディスコミュニケーションを引き起こしたりしない。

もちろんこの話はSFではなくてラブストーリーなのだから、この設定自体が前面に出てくる必要はない。でも設定が練り込まれてないと、行動原理が見えなくなって、人格がストーリーに従属してしまう。

川井マコトの「甘えたい日はそばにいて。」のときも同じことを思った。こちらでも、なぜ記憶の消去をひなげしが恐れるのか説明がないので、アンドロイドの行動に見えない。

「ココロのプログラム」はすごく繊細に描かれているので、描かれていることを自体は不用意に描かれたものと読むことはできない。たとえば「いたいのいたいの飛んでゆけ」の歌を覚えていたこと自体がはじめの記憶であるという微かな希望は、「八足す一」のエピソードを覚えていないことから裏切られる。(つまり「いたいのいたいの飛んでゆけ」の歌は記憶ではなくて、ミームとしての伝播だったということ)

しかし、このことに九が気づき、落胆する表現がない。だから九が何をわかっていて、何をわかっていないのかが、読む側にはわからない。


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