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■ 「汎神論的な悪意/カニチャハーン」(さうして、このごろ2018年4-6月版)
活字中毒。文字メディア大好き。チラシでいいからなんか読んでいたい。ネットラジオとか映像や音声で流すものはほとんど聞かない。TEDですら、英語の勉強だと思って我慢して聞くけど、内容知るためにはtranscriptで済ましたい。音声だと文字のように飛ばし読みできないってのが耐え難い。
先日松屋に行ったら自販機に「大盛りカレー単品」ってのがあったので、サラダとか味噌汁とか無しのことかと思ってそれ頼んだら、「ご飯抜きカレールーだけ」が来た。いまさらご飯追加お願いするのもおっくうで、そのままルーだけ食べてみたら、意外に腹いっぱいになって満足した。よかったね!
カップラーメンにモヤシをトッピングする技法を探求している。普通にカップラーメン作ってモヤシを乗っけるとスープが薄まってしまう。試行錯誤の末、カップラーメンにはお湯半量、モヤシに粉末スープをかけてレンチンして水分を出させて、これらを合わせるようにした。これで私のQOLは25倍になった。
吉岡実の「サフラン摘み」を読みたくなって図書館で探したのだけれど、「吉岡実」という名前が出てこなくて見つからなかった。いま気づいたけど、「吉野弘」とごっちゃになってた。
「ストロングゼロ文学」を理解するためにストロングゼロ ダブルグレープフルーツ 350mlを買った。飲みはじめて、ああこれは以前間違えて買ってぜんぜん飲めなかったやつだと気づいた。しかたなく閉店前のイーオンで半額になっていたアジフライで流し込み、吉岡実全詩集を開いて文字を追う。
「すぐそばにタコのメスのみひらかれた眼がある それには汎神論的な悪意が感じられる」 …汎神論的な悪意!イイね!
駅でSuicaのチャージしているときに機械が「チャージ中です」って言ってるのを聞くと「チャージマン研!」の変身バンクが頭の中でリフレインする。ジュラル星人にSuicaを奪われないように、慌ててカードを引き抜く。
自分がいちばんお金をかけたのは楽器だろうけど、エレキギターは20年前に買った島村楽器のES-335模造品(当時5万円)だし、中2で買ったアコギ(当時2万円)は長男に譲ったし、ウクレレは15年前に買ったフェイマスの入門用(FS-5, 当時2万円)を修理して使ってる。トータルで10万円行ってない。質素すぎない?
今日の任務を無事終了させた。高安ですじラーメン。 腹一杯なので鞍馬口駅まで歩く。まだ岡崎に帰ってから今日締め切りの仕事がひとつあるが、あと一時間くらいで完了するだろう。良い一日だった。
実存的な不安に駆られて眼を開けたら、名古屋駅だった。っぶねー、乗りすごすところだった。
どっかの地方都市に出張したときに線路沿いにある城跡公園をぐるっと歩いたけどあれはどこだっけと記憶を辿ってみたが、山形だということに気がついた。そうそう、この東大手門を渡った憶えがある。駅前に戻ってジャスコ的なスーパーでお惣菜買ってホテルに戻った。
ひとつひとつ数え挙げてみる。広島、富山、高岡、新潟、甲府、長崎、熊本、札幌、仙台、長野、高山、山形、花巻、那覇、せいぜいこのくらいか。旭川も福井も秋田も岡山も山口も博多も大分も鹿児島も行ったことがないな。四国には大学の卒業旅行以来足を踏み入れてないし。(首都圏、関西、愛知は除く)
東海道新幹線沿いはあるか。小田原、熱海、三島、沼津、焼津、静岡、浜松。遺伝研に行ったときの三島はなんかいい感じのところだったな。三島広小路駅、好き。
夕食に帰ってみれば、奥さんから鳥川までホタル見に行こうとの提案。Web情報によると今日がベストコンディションらしい。たしかにたくさん飛んでて最高だった。写真部に入ってる長女が一眼レフで露光時間延ばして撮影したのを送ってくれた。いい一日だった。
小雨降るなか車を走らせて、土井町で右折して田んぼだけの真っ暗な道を通り抜けて、美矢井橋まで出てみると、真っ黒な河と遠くの街の光が見えた。渡橋を通って戻ってきて、TSUTAYAでよつばと!の最新刊をレンタルして、店の前の電灯の下で全部読んで(<-マイルドヤンキー)、リフレッシュした。
よつばが自動改札でおっかなびっくり切符を入れて一喜一憂している様子をコマ数かけて描写しているのを見ると、親目線で涙が出てきちゃう。そうやって私は、三人の子供が成長するところを見届けてきたので。
紅葉が満開の東公園の池の横を通る砂利道を勝手に先に進んでいく子どもの姿を見ながら私は後ろを追いかけていく。ああこの光景を私は懐かしく思いだすだろうと思った記憶がある。でもあれは長男だったか、長女だったか、次男だったか。それすらも思いだせないのだけど。
おっさんカラオケしたい。「ボヘミアン・ラプソディ」とか「天国への階段」とか「ハイウェイ・スター」とか「ホテル・カリフォルニア」とかバンバン曲入れてみんなでマイク奪い合って全員で歌うの。
あとオタクカラオケもしたい。もちろんJOYSOUNDで。「鳥の詩」とか「Rumbling hearts」とか「同じ空の下で」とか「true my heart」とか「青い記憶」とか「Little Busters!」とか「空気力学少女と少年の詩」とか歌うの。当然キー下げるのは禁止。
車でアルバム「断絶」を歌いながら岡崎の街を警備。「人生が二度あれば」は父を亡くしたばかりの私にとっては泣かずには歌えないので、泣きながら歌う。この感情を探ってみたのだけれど「人生が二度あれば」って二度あったってしょうがないんだよな。子どもを育て家族のために年老いた母にとっては。
それでも「二度あれば」としか言いようがないし、若い歌い手が拙い表現として「二度あれば」と歌っている。そしてこのアルバムで歌われている感情はすべて、最初の曲「あこがれ」が提示しているように、ステロタイプな「あるべき姿」が失われた世界の話となっている。
だから「二度あれば」も子供じみた願望を、そんなものは失われた大人の世界から歌っているはずなのだ。同様に「断絶」も「感謝知らずの女」も「愛は君」も「限りない欲望」もそれらの感情はぜんぶ相対化されるの。竹田青嗣の陽水論でも似たようなこと書いてた気がするが、手元にないので確認できない。
一方でアルバム「断絶」は陽水的にはコミックソングとして作ったんでないかという節もあって、「小さな手」で間奏がいきなりムード歌謡になる(サックスソロと伊勢佐木町ブルース的吐息)とか「断絶」のやけくそな歌い方とか「ハトが泣いてる」がなぜかブラス・ロック的なアレンジであるところとか。
わざわざググって「伊勢佐木町ブルース」というキーフレーズを探し出す俺エラい。(<-偉くない) しかもどうしても思い出せなくて、「お色気BGM」でググると「タブー」とか「哀愁のヨーロッパ」ばかりで、しかたなく「テレッテテレレレッテレ」でググったら見つかるという驚きを伝えておきたくて。
「あこがれ」がオルゴール曲の序曲で始まって、「家へお帰り」のエンディングが同じオルゴール曲で終わって、そのあと曲間が少し開いて「傘がない」が始まる。これはサージェント・ペパーズでの「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」と同じなので、「傘がない」はそれまでの曲と別の位置づけになってる。
「うにラーメン」が食べたい。うにがビッシリ入ってるの、殻だけ。中身は無し。しかも汁なし。そんなの食べたくない。寝る。
本日の「一度使ってみたいフレーズ」は「おいおい、そいつはちょっとパッショネイトすぎないか?」で。「パッショネイト」好きなんだが、パッショネイトな奴がなかなか見つからないので使う機会がない。
「カニチャハーン」が食べたい。「カニチャーハン」ぢゃないの。キラー・カーン的な何か。特殊健康食品カニチャハーン。
「忘れがたない虹と花」ってなんだっけ、とググってみたら、中原中也だった。中原中也を忘れてるのはさすがにまずいと思った。
自宅の部屋がどうにも不快で、しかも不快であることにも気づいていなく、ただただ不幸な気分に浸っている状態だったのだが、ふと思い立って扇風機を出して動かしてみたらすべてが解決した。蒸し暑かったのだね。