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■ グレゴリー・ベイトソンの「形式、実体、そして差異」をまとめてみた

北海道大学の人間知・脳・AI 研究教育センター(CHAIN)の教育プログラムを作っていくところでわたしが密かに構想していたのは、グレゴリー・ベイトソンの「精神と自然」にあるような「サイバティックな認識論」を現在の科学の水準のもとで再構成するということだった。

「精神と自然」についてはこのブログの初期にサマリを作ったことがある:グレゴリー・ベイトソン(Gregory Bateson)の「精神と自然」まとめ これを作成したのが2000年8月のことで、まだ私はPh.D.を取得する前の過酷な実験生活に合間を見て書いたもので、それが巡り巡っていまここに戻ってこようというのだから感慨深い。

でもたとえば、Chap.2の「4.イメージの形成は無意識過程である」なんて見たら、ヘルムホルツ的視覚観じゃん!とか思うけど、フィードバックとフィードフォワードを組み合わせたキャリブレーションの概念とかまだ汲み尽くせない問題がある。また、「生物学に単調な価値はない」「[安定している][変化している]という言葉は記述のうちの一部分のみを表している」まさにどれもこれも今私が伝えておきたいことだなと思う。

そういうわけでベイトソン読み直してみた。ベイトソンのもうひとつの主著「精神の生態学」のラストの方にある講演原稿「形式、実体、そして差異」は、有名なフレーズ「情報とは、違いを作り出す違いのことである」の初出も含まれていて、ベイトソンの様々なアイデアを繋げて一つの話にしてあるという意味でたいへん重要な記事なので、これについてまとめておこうと思う。(なお、講演原稿であるため、個々の事項についての説明はあまりなく、これだけでは説得力があるかわからない部分も多々ある。)


[グレゴリー・ベイトソン「形式、実体、そして差異」まとめ]

(訳注: この原稿は1970年のコージブスキー記念講演というところで話されたもの。コージブスキーといえば「地図mapと領地territoryはべつものである」のフレーズで有名。これはベイトソンが頻繁に言及する。)

[前置き]

  • ギリシア哲学の時代から、2つの認識論が対立している。ピタゴラス派は(世界について)その実体substanceではなくてパターンを探求すべきとして、実体派と対立し、非主流的立場でありつづけた。
  • 進化論のラマルクは、精神mindとパターンを進化の説明原理にしようとした、ピタゴラス派の後継。しかしラマルクはダーウィンらの生物学的な考え方によって主流からは追いやられた。
  • サイバネティクスとシステム理論によって、(ピタゴラス派からの系譜の)パターンについての探求を行うことが可能になった。
  • ここでは「精神mindとはなにか?」について私なりの考えを書いてみよう。
  • そのためにまず進化の側面から話を始める。

[進化における生存の単位]

  • 「自然選択における生存の単位」とはなんだろうか?
  • ダーウィンの進化理論はこれを個々の生物や家系や亜種と捉えていたが誤っている。
  • もしこれらが生存の単位として最適化されるならば、環境を破壊し、おのれをも破壊してしまう。
  • 集団遺伝学はこの誤りを部分的に訂正した。生存の単位は均一な集団ではない。この不均一性こそが環境を扱うための試行錯誤システムの半分を担っている。
  • このような生物側の柔軟性(flexibility)に加えて、環境自体の柔軟性も考慮する必要がある。
  • よって「自然選択における生存の単位」は「柔軟性を持った生物と環境」これだ。

[精神mindの単位]

  • いっぽうで、精神mindの単位とはなんだろうか?
  • その準備として、差異について考えてみることにしよう。

[差異とは?]

  • ここでコージブスキーのフレーズを思い出そう。
  • 「地図mapと領地territoryはべつものである」というとき、地図の上に載っているのは何か?
  • それは領地のうち、周りと異なっている部分、つまり差異だ。たとえば高度の違い、植生の違い、これらの差異が地図上に線として書き込まれる。
  • では差異とはなんだろう?それはモノthingではない。紙と木材の違いは紙や木材の中にはない。紙と木材の間の空間にもない。差異とは抽象的なコトmatterだ。
  • ハード・サイエンスにおいては力とかそういう具体的な原因によって結果が引き起こされる。
  • しかしコミュニケーションの世界では、差異によって結果が引き起こされる。
  • ゆえに「知らせが無いこと」も原因となりうる。
  • (カントの「物自体」の議論と関連付けたうえで)観念ideaとは、もっとも基本的なelementary意味では、差異と同義ではないだろうか?
  • たとえばチョークと太陽との間、チョークを構成する分子の位置、こういったところに無限の差異がある。
  • われわれはこれらの無限の差異の中から限られたものを選択し、それが「情報」となる。
  • つまり情報(より正確には情報の基本的な単位)とは、ある一つの差異を生み出すような一つの差異のことなのだ。
  • この差異を運ぶための神経回路は、エネルギーを用いていつでもトリガー可能な状態になっている。(訳注: エネルギーが運ばれるわけではない)
  • このようにして身体の内部では差異による信号の伝達があり、身体の外では紙からの光が原因となって網膜へと入ってくる。
  • 「地図mapと領地territoryはべつものである」というのは、このような神経回路での変換によって、地図の地図の地図、が際限なくつづくものが精神の世界なのだということ。

[プレローマとクレアトゥーラを繋ぐ]

  • ユングが導入した2つの説明世界。
  • プレローマpleromaはハード・サイエンスの世界で、そこには区切りがなく、差異がない。
  • クレアトゥーラcreaturaは精神の世界で、差異が結果を生み出す。
  • (これら2つの分断ではなくて、)両者を結ぶ橋を考えてみよう。
  • ハード・サイエンスがプレローマだけを扱っているわけではない。
  • カルノーサイクルで温度差が無くなってしまえば仕事を取り出すことができない。
  • プレローマの研究者はこれを利用可能なエネルギー(=自由エネルギー)として捉える。
  • いっぽうでクレアトゥーラの研究者はこのシステムを温度の差異によってトリガーされる感覚器として記述するだろう。
  • つまり、情報を生み出す差異とは、この場合自由エネルギーになっている。
  • (訳注: 原文では「自由エネルギー」の部分はシュレディンガーの「生命とは何か」にあるように「負のエントロピー」を使っているのだけど、ミスリーディングなので読み替えてる。)

[シナプス加重と閾]

  • シナプス加重という現象では、ニューロンAの活動とニューロンBの活動が同時に起こったときだけニューロンCが活動する。
  • これをプレローマの研究者は加重summationと呼ぶけれども、むしろ差異を作り出すシステムの働きと考えたほうがよい。
  • つまりクレアトゥーラの研究者からはこのシステムは論理積(AND)の形成と捉えられる。

[差異の階層化について]

  • (訳注:省略)

[精神mindの単位ふたたび]

  • それでは、わたしの精神 my mindとはいったいなのか?
  • 木と斧と人間が作るシステムを考えてみる。
  • われわれが木を斧で切るときのシステムはこれらのサイクルをグルグルと巡り、切り離すことはできない。
  • 「精神の最も単純な単位」はこのようなメッセージが周回する回路だ。
  • そしてこれが観念ideaの最小単位とみなしても不合理はない。
  • このようなサブシステムが階層をなして、情報を変換し、試行錯誤をする回路の全体、これが私の精神だ。

[生存の単位と精神mindの単位]

  • このような「精神の単位」についての見方は、前述の「進化における生存の単位」についての見方と正確に一致する。
  • これこそがこの論文が提供する最も重要な一般則だ。
  • 進化における生存の単位も階層的構造をなしており、DNAが細胞の中にあり、細胞が身体の中にあり、身体が環境の中にある。
  • これらはそれぞれのレベルで「システム」であり、前者(例:DNA)がそれを取り巻く基体(matrix)である後者(例:細胞)との対比で可視化される。

[以上のことの意義、帰結]

  • 以上のことは理論的な意味での重要性だけでなく、さまざまな側面について見方を大きく変更するような重要性を持つ。
  • たとえば生態学における倫理的側面。 (訳注:省略)
  • たとえば宗教と神学。 (訳注:省略)
  • たとえば詩的想像力と美。 (訳注:省略)
  • たとえば死の意味。 (訳注:省略)

さいごの省略した部分が充分な分量があって、そこも意義深い。

たとえば、知覚するものと知覚されるものが分断されるような、現在の我々の思考法全体を組み立て直さなければならないのであって、音楽を聞く私と音楽との境界が消え去るような、新しい思考法を身につけること、これが大きな課題だと言っている。

また、「美、芸術」についてのところでは、知性と感情の分離の問題において、芸術家が行っていることはたんなる感情側についてのものではないのだと。芸術が関わるのは、知性と感情の橋渡しの仕事だと。芸術が関わるのは、精神課程のさまざまなレベルの間に結ばれる関係なのだと。

さて、読めば読むほど、話が大きいスケールに広がって、まあそれがベイトソン自身が歩んだ道の追体験であるのだけど、これを批判的に読んだうえで、ダメな部分はちゃんとダメと言ったうえで、もっと地に足をつけた形で再構成してやろう、これが私の野望というわけです。ともあれ今回はここまで。


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