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■ 「サリエンス・ネットワーク」というときの「サリエンス」ってなんだろう?
Menon & Uddinが言うsalience network (anterior insula - aACC)のsalienceと、sensory salience, acquired salience, motivational salienceとを統一的に理解したいということで、彼らのsalience networkのsalienceとは何を想定しているのか、元論文を追っていった。
すると、Seeley et al. JNS 2007ではこういうリストがあった:
"the emotional dimensions of pain, empathy for pain, metabolic stress, hunger, or pleasurable touch, enjoyable “chills” to music, faces of loved ones or allies, and social rejection"
なんだかずいぶん雑多だな。それこそ知覚的なものには落とし込めない「感性」に近いような気がしてきた。(サリエンスは対象に貼り付けられ、感性は感知するヒト側に投影される。そこが違い。)
けっきょく、Craig Nat Rev Neurosci. 2002にもあるように、insulaの活動はsubjective feeling (or ‘gut reaction’)を感知していることと対応している、という考え方があるからこうなるんだろうな。
Salienceという概念を正しく使うためには、隣接する概念、例えばvalueとかときっちり区別しないといけない。たとえば、前述のCraig 2002では「顔刺激を見てその人をどのくらい信頼できるか」といった評定とrAIの活動の相関があるから、それは顔に対するsubjective feeling (or 'gut reaction')なんだという言い方をしている。こりゃ大丈夫だろうか? (Craig自身はsalienceという言葉は使っていない。しかしvalueとかとの対比はしてないっぽい)
ともあれsalienceという概念は、ヒトが自分の主観的な状態を外界の刺激に貼り付けたものなのだけど、サリエンシー・マップで強調していたのは、それによって周りと異なっている、ことがサリエンシー(顕著である、突出している)を作っているということだった。
Shultzが使う寿司の絵で言うならば、寿司がそれ以外のものと比べて突出していることこそがsalienceだ。この場合はvalueが違っているのが理由だけど他のものでもいい。Valueでもabsolute valueではなくてrelative valueのほうになる。
話を戻すと、いろいろ調べてみたんだけど、行われている実験はresting stateでAI-aACCをICAで取り出してそれとexecutiveやDMNの活動との相関を調べるとかそういうのに終始していて、サリエンス・ネットワークがサリエンスとして単離できるような情報を処理していると言えるような証拠はどうやら無いようだ。「サリエンス・ネットワーク」がなんて名前をつけた割りには。まあだからその辺をちゃんと攻めてみるってのもひとつのやり方だし、理論を構築するにしてもそのくらいの証拠に基づいているというpriorを持っておいたほうがよさそう。
Craig Nat Rev Neurosci. 2009のほうも入手した。というか以前チラ見したことがあった。こちらは「Insulaでさまざまなサリエンシーが束ねられて自己ができあがる」と書いてある。これを読みたかった。もう少し正確に抜き書きすると、
"awareness"の定義として「自分が存在していることを知っていること」と書く。これはawarenessの定義というよりも構成要件だ。つまり「自分以外のなにかが環境に存在し、そのサリエンスを経験できる」ためには「知覚する己の存在を経験できる」ことが先立つ。
これは「前反省的自己意識」で言っていることに近い。そしてさらに「環境にある物体をawareする」ことが成り立つ要件として「1) 知覚する存在としての自分の心的表象(前述) 2) その物体の心的表象 3) 自分と物体との間のsalientな相互関係の心的表象」を並べている。
この"the salient interrelationship"というここが面白い。ここではsalienceを物体に投影したものではなくて「物体と主観との間の無数の関係の束の中から突出したもの」というふうに捉えているように見える。
なんかものすごく重要なことを言っているように思えるので、もうすこしじっくり読んでみようと思う。今回のところはここまで。
けっきょくこのあたりの話を見てゆくと、意識の研究には「知覚的意識の内容物(content)」と「主観的な自己としての意識」があって、両方ともにextensiveに行われてきた(前者はBRなどによって、後者はmotor awarenessやラバーハンドで)。サリエンスにキーワードに両者をうまく繋げることができないだろうか、とかそんなことを考えた。
補足:「1) 知覚する存在としての自分の心的表象」とあるようにCraig 2009では「心的表象(mental representation)」が必要だと書いている。これの内実がなんなのか、前反省的なものなのか、反省的なものなのかってあたりを考える意義はありそう。
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- / 投稿日: 2015年01月24日
- / カテゴリー: [Saliencyと眼球運動]
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