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■ さうして、このごろ 20140216
今日は次男と一緒に将棋して、それから次男と一緒に凧あげした。すごく寒い、風の強い日で、凧はよく上がったが、風に持ってかれて凧はぶっ壊れた。長男が小さい頃からずっと使ってきたポケモン凧。来年になっても次男は凧揚げなんてしたがるだろうか?新しい凧を買うべきだろうか?そういう一日。
アパマンショップの歌を舞の海が歌うCMで、「アッパマン ショップでえ?」みたいにイントネーションが上がる部分、あそこが好き。とここまで書いてからぐぐってみたら自分のブログが出てきたので、どんだけアパマンショップの歌が好きよ俺と思った。
「思ってた? 恐れてた? だけど あれ? なんか 違うかも」ってくだりを聴くと「ガッデームって俺って何も言ってねーっ」をなぜか思い出す。
ひとつも 含みを持たないように 腕時計はずすように 道端に紙を敷いた / それから 腕まくりの洗面器 氷水とキュウリ 振り向くとなにか消えた / だれもが 角のとれた電池 花粉症の薬 ハサミムシ逃げ出した
無責任な野次飛ばしてみたり、ポリカーボネートの棒磨いてみたり、途切れそうな会話をむりやり繋いでみたり、毛布の毛玉を全部もぎ取ってみたり、私は宇宙の法則を探るために、あらゆる方法で世界に働きかけた。鶏をかたどった錆びた風車が軋み、コーヒーカップが電子レンジの中で泡を溢れさせた。
「行くも地獄、引くも地獄、だったら俺は引くぜ」…って引くな。
crossingって語は、鉄道用語だと交差する部分であってけっして乗り換えができない。だからこの語は、いっとき交差するのだけれども、それはけっして互いに影響を与えないような偶然の邂逅である、みたいな醒めた視点を含意している。もちろんこれは深読みです。深読み大好き。
「いいからそこの学食の端っこの方で石鹸でもかじってろよ」#今日の罵詈雑言
恐竜なんて、滅びればいいのに。#すでに起きている事象をまるで自分の願望が成し遂げたことのように言うためのレトリック
寒すぎて足首攣った。ベンチに座って伸ばして凌ぐ。(<-ライム?)
ひと仕事終了した! 札幌駅のホームに降り立って「のんのんびより」のOPを爆音で聴きながらホームの時計を見上げたら、「どうあれ俺は俺であり、変わりようがない」という当たり前なのにずいぶん大げさな啓示がやってきて、なんだかそれはカラマーゾフのミーチャの改心の瞬間のようだった。
「どうあれ俺は俺であり、変わりようがない」と昨日は思ったが「時が来たなら終わるもいいさ / それが俺の最後の運命だったら」とも思った。
節分。今日は俺が鬼の役だったので「不動の心、不動会」とか言いながら居間の片隅でポーズを取ってみたら、子どもたちが「無言で」落花生を「勢いつけて」俺に投げつけるというわけのわからないことに。途中で奥さんが指摘して「鬼は外、福は内」がコールされるようになったので節分らしくなった。そんな日。
「夜は短し歩けよ乙女」をkindleで再読してた。前回読んでたのは2008年4月。思えば遠くへ来たもんだ、と言いたいところだがそうでもない。あのときは「太陽の塔」を読む前だったのでうまく出来たエンターテイメントとして読んだのだけど、「太陽の塔」を読んだあとでこれを再読すると、なんだかすべてが悲しい願望から再構築されたもののように読めて、それはそれですごく良かった。
人間ならだれだって、夜中に「ハンター!!!」と叫んで家族を全員起こしてみたいものだろうと思うのだが、わざわざそのようなことをけっしてすることはない。この、「わざわざそのようなことをけっしてすることはない」という感覚って催眠的だよなあと思う。
術者の言うことに反抗することもできるけどでもわざわざ抗しようという気も起こらずに従ってしまう。われわれはつねに、社会やらなんやらに条件づけられて行動していることに後付けで理由をつけて、催眠的に生きてるんだな。(<-凡庸の極み)