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■ 連合学習理論の記述のレベルってどこだ?
(20020822あたりのツイートを元にして作成。)
いまブログの準備を兼ねて、澤幸祐 動物心理学研究2012(「連合学習理論は擬鼠主義の産物か -表現論としての連合理論-」pdf)を読んでいるところなんだけど、「中間言語としての連合学習理論」ってのになるほどと思った。でもって、そのレベルの文法体系それ自体が自立した整合的な(まさに文法的な)構造を持っているのかどうかという問題はさておき、これをデビット・マーの三段階の理論と(むりやり)つなげて考える。マー的にはImplementation-アルゴリズム-計算論という階層的な構造があって、あくまで工学的な問題解決から捉えているのだけれども、これの上に中間言語としての連合学習理論もマップできないだろうか?
たとえばそれはアルゴリズムの層であって(種差よりも共通性を重視する)、いっぽうでエソロジーというのは計算理論のレベル(=エコロジカルな意義のレベル、と読み替える)であると説明できないだろうか? ってこれは井口善生 動物心理学研究2008(「連合論的学習心理学と比較認知科学の断絶と接点」pdf)の方に関わる問題か。
このエッセイでは「比較認知科学に関わる者は、古典的エソロジーが最終的にメカニズム論を生理学に任せてしまったように、ヒトの認知心理学にメカニズム論を任せてしまうのか、それとも比較認知科学独自の予測性を持った理論屋モデルを必要としているのか、再検討してみるべきだろう」と書いている。
これはさっき書いた、そのレベルの文法体系それ自体が自立した整合的な(まさに文法的な)構造を持っているのかどうかという問題にもつながるだろう。
話を戻すけど、以前ブログに書いた話で、 マーの三段階の階層構造は分断されたものではなくて、ベイトソン的に表象とプロセスの連関でもって繋がっていると考えた方がいいのではないかと思う。
ならば、それは脳と体と環境の相互関係が作るバイオロジカルなレベルでの記述(バイオロジカルセオリー=たとえばSTDPで強化しましたとかそういう記述)と心理学的理論の文法構造とは階層的に繋がっていて、両者が拘束し合う形になるはずだと思う。
神経科学の研究はこのような意味で心理学的な理論に拘束条件を与えていくというのがマーが想定したプロジェクトだろう。これはバイオロジカルセオリー(たとえば上丘のニューロンの活動の空間的平均でサッカードのベクターの向きが決まる)だけで充分ですか、って問いになる。
今平行して読んでいるBBS2009 "The propositional nature of human associative learning"(pdf)では、現象としての連合とメカニズムとしての連合を分けるべきで、メカニズムとしての連合は自動的無意識的ななlinkと認知的かつ命題的ななものとがあって、後者を強調している。
とりあえずこのへんまでは読み進めた。とりあえず自分なりの問題意識は見えてきたけど、まだ考えはまとまってない。
書いたもの見直して思ったけど、BBS2009でのlinkのようなものはほとんどimplementation(バイオロジー)のレベルを置き換えて言っているのに近いのだろうな。すると、アルゴリズムの層よりももっとimplementationの層に近いような気がする。というか両者を同一視しているのだな。