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■ そうして、このごろ1001
ついったから転載。
自分はどのタイミングで全脳感を失ったんだろうか? ひとつ覚えているのは、小学校六年のときに生徒会長だったんだけど(正確には代表委員会委員長)、それが教師の傀儡として操られる存在であるという醒めた認識を持ったときだろうか? (小6で中2病ってかんじ。)
そういう状況事態をひっくり返すようなメタな発想と行動力を小学6年生に求めなくてもいいと思うけど、ともあれあそこが私の原点だったことを思い出す。徒競走が遅くたって、泣き虫だったって、投手として使い物にならなくてコンバートしたって、そういうことで自分の自尊心は揺るがなかったけど、「優等生」をやらなくちゃいけなくなった屈辱は忘れない。
そんなことを考える今日は次男の運動会の日で、両親がはるばる応援にやってきて、ビデオを撮影して、ステーキをごちそうになって、その店は今月で閉店となっていて、すっかり寒くなっていて、けっきょく私は帰るなり2時間ほど昼寝していた。そんな日のこと。
俺はこれだな:(15)の改変 何者かになりたいという欲望はあり、何者かになる強烈な快感をまだ味わってない自分をみじめだと思っていたが、仕事が忙しいのでどたばたしてたら年を取ってしまって、もはや何者かになれる人間ではなくなっていた。
だがここからが人生だ。俺の情熱はけっして消えないし、消えそうに思ったこともない。その時々の状況の中で、自分の疑問を磨き続けて、先鋭化させていく俺の旅はまだ終わっていないし、終わらせる必要もない。どんな状況にいようとも、だれも私のことを何者と認めなくても、それを続けていく力がある。
こういう抽象的な議論は好きではないのだが(<-おまえが言うな)、「何者かである」ということは「何者かであることによる強烈な快感」によってのみ定義される純粋に内的な価値であって、直接的には外的に決まらない。もちろん内的なものは外的なものによって影響を受け、規定されさえするが。
あーあ、でもさあ、率直に言って、世界が俺の思うとおりにならないなんて理不尽すぎる。ぷんすかぷーん。(<-キモッ)