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■ 「頭の良さ」談義
飲み会の時とかにわたしが振る話題で「頭の良さ」談義ってのがあります。あなたの知っている「頭のいい人」の頭の良さというのはどういうものだったか教えてください、っていうお題で議論をするんです。なかなかうまくいかないのだけれど。
で、具体例になってしまうのでここでは書かないのだけれど(エー)、もっと抽象的な言い方をすると「ややこしいものをものすごくシンプルにしてみせる頭の良さ」ってのがあります。じつはわたしは「見切りの良さ」みたいな頭の良さは信じてない。このへんはいつものわたしの話同様、入り組んでいるのでもうすこしきっちり書きます。
見切りの良さと手際の良さで頭がよく見える人はいる。大学に入ったころはそういうのに憧れてた。だけど今は、そういうのって自分の得意分野に引き込んだ上での巧緻性なので、よりメタな問題に対処するために自分を拡張しなくちゃいけないときにときとして邪魔するんじゃないか、なんてエラそうに考えてる。
わたしが科学者にありがちな極端な還元主義的思考になじめないのはじつはそれと同根であるものを感じているからだ。ウサンくさい複雑系かぶれだと思われないようにさっさと付け加えると、還元主義がいけないわけでもなくて、ものごとをシンプルに保つこともいけないことじゃない。見切りの良さとものごとをシンプルに保つことが重要なのは、もっと複雑な問題(たとえば「意識の問題」とかね)を考えるためにその手前のことをさっさと片付けるため、そしてそのときだけだと思うんだ。
だから、上記のことをもっと正確に言うと、「『物事をシンプルに保つ』という思想をじっさいに扱っている問題自体をシンプルにすることにまで使ってしまう不用意さ」をわたしは問題としてる。
わたしがデビッド・アレンの「Get things done」の本で好きな点は、「頭の中にたまっているToDoを全部書き出してしまう」ということを人生の目標を矮小化する(「書き出されたことだけが人生で可能なことだ」)ためにやるのではなくて、頭のもやもやを取り除いて、もっと創造的なことに頭を使うべきである、という風に考えている点だ。(正確な表現を探しておく必要あり。)
そして、そういった創造的なことをするには頭はもやもやさせなければならないし、わたしが以前書いた「わたしの中のカオティックな部分」ていう表現はまさにこれについてだった。
Simplicityを薦める本がもし真っ当であるならば、それはcomplexityを雑に扱っていないはずだ。
この文章を書き始めたのは「シンプリシティの法則」(ジョン・マエダ)の書評をいくつか読んだからでした。極東ブログでの表現で、
シンプリシティ(簡素さ)とはけしてシンプルなことではないからだ。そしてなぜそれがシンプルではないかというと、シンプリシティを求める人間の知性や美意識のなかに、生命の本質が関わる複雑性の要素をそぎ落とすことができないからだ。
なんて書いてあったので、これはいけるんではないかと思ったのです。ちなみに5番めの法則はこう:Simplicity and complexity need each other.
ちなみにジョン・マエダはMITメディアラボ教授。わたしは「ビジュアライジング・データ」の前書きでその名を知りました。
ジョン・マエダのブログのこのコメントなんかは科学者的発想でしょうね。
Simplicity can live by its own. complexity need to be simplified.
それにたいしてJohn Maedaはこう答えてる。
That’s a neat idea — to ask whether one can cancel out the other, and whether that relationship is reciprocal.
ここはとても素敵だ。考え続けてるかんじがある。かんたんな答えじゃないよね。
わたし自身はどうかというと、自分で自分の限界はわかっているから、とにかくできるところからやってる。図式化とかしたがる。なんかほかの例につなげてみようとか。パラフレーズして自分の表現にしてみようとか。私と会話していると、なんかこの人の言ってることは繰り返しばかりだな、と思われるかもしれない。仕方ない。その通り。コジツケとか、思い込みでの即断とかもけっこうあるけど、要はわたしなりに見通しを良くするところにそれなりに労力をかけているんだ。 (続き書くべし)
論文コメントブログってのをやってるのもそういう意義がある。べつにわたしは流行りものに飛びつきたくってこんなことやってるんじゃない。メタパターンを学習したいとか、いろんな言い方ができるけど、そう「見通しをよくして、重要な問題を見つけたい」、それだけなんだ。始まりは素人的な素朴なアイデア、それのimplementationのためにはきっちりとしたサーベイ、この二つのプロセスの両方に、違った意味で効いてくると思うんだ。
(KISS (keep it simple and stupid)に対する複雑な思い、について書くべし)
話を戻すと、だから今はわたしは、粘り強く物事の本質を見出すところまで辿りつく能力に頭の良さの価値を見出していて、じぶんでもそこへなんとか辿りつけないかなと思いながらいろいろやってます。
じつはこのエントリは「頭の良さ談義」の話と「Simplicityの書評」とかに分けることができて、読み物として楽しむためにはもっと整然と書く必要がある。だがこれは俺のブログだ。わたしがどういう思考過程を経ていたのかを記録するためにこのような構成が使われているというわけ。とはいえ、これでもかなり構成をいじり、書き直しを経ているのだけれど。
なんて言って、唐突に終わる。なんかエラそうな物言いなので、このエントリに漂っているヴァイブwが気に入らない。けど出す。いやあねえ(キンドーさんっぽくシナを作りながら)。