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■ 論文コメント日記についてのあふれる思いを

どもども。さいきんブッコワレ気味です。水泳やってたこともあって、むかしは夏の方が好きでしたけど、なんかさいきん夏の暑さに体がもたない。歳でしょうか。なんてことはどうでもいい。

たまに思いがあふれてつい「私のブログ論」を書いてしまうのです。繰り返しになりますが、たいがいあとで消してるので、なんどでもやりましょう。長いっすよ。


んで、なんで私がこのブログで人の論文になんか言うのをメインコンテンツにしているのか。それは、1) それがいちばん書いていて問題が起こりにくいから、2) それは有益だから、3) 同じようなことをする人が増えてきてくれたらうれしいと私が思うから、そして 4) それらの交流を通じて、もっと大事なことを語れる場を作るお膳立てが可能となるから、です。

1) 「それがいちばん書いていて問題が起こりにくいから」

ネガティブな言い方を先にしてしまいましたが、私はブログをやることでプラスになることはあってもマイナスになることはないよ!ってのを身をもって示したい、って思いながら書いてます。だからここから書きます。

ブログを書き始めのころは、これは面白いなと思って書いたことがけっきょく人との会話だったりしてパーソナルなコミュニケーションに元づいていることであることを発見して、書くのを断念するということがしばしばありました。そういう意味では、公開された書類である学術論文にコメントをするというのはとてもやりやすいわけです。思えば、世の中のブログというのもたいていはなんかのニュースや人のブログを読んでそれにコメントを付けるというのが大半な訳ですが、それをサイエンスの分野でやっているとも言えるかもしれません。

だいたい、私と会話したことがいちいちブログに載せられたら嫌でしょうし、そういう目で私のことを敬遠されたら私としても困ります。そういうことをしませんよ、ということは激しくアピールしておきたい。だからイニシャルトークもしないようにしてます。「某先生」とか言ったりしない。たぶんこれまでにここで伊佐先生や宮下先生の話を書いたことがないんではないでしょうか。わざとそうしてます。そういう話題は飲み会で(エー)。

脱線しました。けっきょくのところさまざまなアイデアは人とのコミニュケーションでできてゆくのであって、完全にひとりのオリジナルアイデアなんてない、とも言えますが、いかにきっちりアイデアにクレジットを付けるか、ということにはものすごく気を遣っているつもりです。逆に言えば、人のアイデアをさも自分が考えたように書くという行為には厳しい。出版されている本の多くはこのラインを踏み外していると思うんです。極論はすべての文章が論文みたいにreference付きまくりになるということなんですが、別にそういうことを要求しているわけではありません。

2) 「それは有益だから」

そしてこれは有益です。みなさんそれぞれのラボでジャーナルクラブをやっていると思うんですけど、そのなかで冴えた意見が出ると思います。論文を批判的に読み込んだら、いろんなアイデアが出るし、そういう中から抽出されてきた思考法を作る場のひとつです。たとえば、適切なコントロールはどういう条件か、ある主張をするためにはどういう実験が必要か、ある実験結果から言えることはどこまでか、解析法などの問題点を踏まえた上でどのくらいまでが妥当なことをいってるか引き算して考えるとか、within-subject comparisonがいかに重要であるかとか、実験結果をdouble dissociationとして示すことの威力とか、そういうことの多くをわたしはジャーナルクラブから学んできました。このことは"strong inference"の考え方をさらに突き詰めて頭にたたき込む、という意味で私にとって重要な過程だったと思います。そういうのをもっとみんなで共有できたらいいのに、と思うんです。ウェブを漁るといろんなラボのジャーナルクラブの記録(論文リスト)が出てきます。あれに「要旨見てもわからないようなこと」を3行コメント付けてくれればすごく有益だと思うんですけど。

ちょっと具体例。うちのサイトでだったら、20040118で、Andrew SchwartzのScience 2004が蔵田先生のJNP 2002のプリズム適応の焼き直しじゃないの?ってコメントが一つあれば充分。GlimcherのNeuronについてのスレッドで長々と私が書いたこともひとことで言えば、「タイトルに反してobjective desirabilityを見ている」と書ければよいのです。ま、そういうふうに簡潔に鋭く書くってのが大変なわけですが、ラボでのジャーナルクラブってのはそういうのが行き交ってる場だと思うんです。

冴えてる人は各地にたくさんいますよね。そういうのに興味がある。飲み会で私がよくする話題のひとつとして「頭の良さ談義」というのがあります。いろんな頭の良さがありますが、私が経験したのはこういう人の例ですが、あなたの経験ではどうですか、というやつです。具体例なのでウェブでは不可能なわけですが。脱線。

3) 「同じようなことをする人が増えてきてくれたらうれしいと私が思うから」

んでそういうことをだれかが書いてくられたうれしいなと思うんで、自分でやってみたわけです。まえにも書きましたが、それはそのころ読んでいたガヤ日記Gardenerさんの日記からの影響でした。んで、それらへの応答として、システム神経科学はものすごくcontext-richなんでどちらかというと長めなコメントを作るという方針にして現在に至るわけです。それから、同じようなことをする人も増えてきて、良かったなと思ってます。

論文コメントの集約が出来たらいいなあとかそれに基づいたコミュニティーを作れたらいいなあということを以前はいろいろ書いていましたが、なかなか難しい。もっと気軽に参加できたらいいのですけどね。ソーシャルブックマークでひとこと記入、でもおおいに意義があると思うんです。

あと、こういうことをするタイミングは、プロジェクト始まりとか始める前のサーべイ期に行うのがいいんではないかと思います。じっさい、こういうブログを運営されているのはポスドクやドクターの方が多いわけでして、それはたぶんネットを始めた時期とかにはよらないのではないでしょうか。

ということでいまでも、より多くの方の参加を期待しております。

4) 「それらの交流を通じて、もっと大事なことを語れる場を作るお膳立てが可能となるから」

んで、ほんとうはそうやって人の論文をサカナにして語ることによって、私たちはこれから何をやっていけばいいのだろうか、とかそういうことを語りたいのですね。べつにトレンド追っかけろとか言ってる訳じゃありません。その逆。私たちがこうやっていろんな課題中にニューロンを記録するという実験パラダイムでやっているけど、そこから先に行くにはどうすればよいのだろうか、ということであります。これからも実験手法は複雑になり、さまざまな高次脳機能を明らかにしようという流れは続くでしょう。また、脳の中でまだ明らかにされていない領域(わたしは未開の地とか呼びますが)、たとえばtemporal poleとかfrontal cortexの先っぽとかparietalのmedial側とかをcharacterizeしてゆく方向性は王道だし、これまでに考えられていなかった実験パラダイムを生む可能性もあるでしょう。たとえばミラーニューロンのように。でもほかはないか。ということで日々議論してるし、たしかに納得する意見もあります(こういうのがいちばん面白いんだけど書けないんだ)。こういうことをブログにみんながみんな書いてくれるとは思わないし、わたしも多くの部分を周りの人との議論によって作ってあるが故に書けないことが多いです。でも、このブログで書いていることが呼び水となって、そういうことを語れる場を設定することが出来るんではないかと思うのです。

流れ上、せっかくだから私自身考えていることを多少書いておきますが、わたしはこのシステム神経科学という実験科学を生体と環境との双方向の作用を取り込んだ考え方に移れるようにしたい。ひとことでいってしまえばsensorimotor contingency theory of consciousnessのラインなんですが。環境への働きかけによって私たちが環境をどう捉えるかは影響を受けるし、私たちが環境をどう捉えたかによって環境への働きかけは影響を受ける。そういうループの中で意識は生まれては消え、それをまとめ上げて自己と他者を認識する。この系では、原因と結果がループになっているのを解きほぐさなくてはいけない。そのためには現在の入力-出力スキームを越えた科学的議論が、学術論文誌に掲載されるような堅い議論に基づいた論文として作れるような形にならないといけない。パラダイムチェンジ、なんて言ってるだけではダメなのです。べつにわたしは科学批判を本に書いて文化人になりたいわけではなくて、NatureやScienceでも通じるような議論推論の形が作りたいというわけです(デカく出た!)。私たちが論文で使える論理はものすごく限られています。条件Aと条件Bの引き算とか。対立仮説のrejectとか。原因と結果がループをひとつのシステムとして説明するためにモデルを持ち出すというのがシステムバイオロジーなわけだけど、実験データにモデルを付けるという後付けでやってる限りそんなに強い議論だとは受け取ってもらえない(かならずや、パラメータの数増やせば、説明できるのでは、とか言われてしまう)。というかこれは人ごとではなくて自分の話なのだけれど。そこで、後付けだけにならないようにpredictionをしてやろう、というのが川人先生の操作脳科学の意義のひとつだと理解しています。私自身のアイデアはこの文脈に繋がるのかもしれません。

んで、そういうところを切り開いてゆけるようなところに向かいたい。私にとってミラーニューロンが面白いのはふつうに生理学的に記述しようとするとものすごくたいへんなのだけれど、そこでこぼれ落ちてしまいそうなところがあるのを感じるからです。Blindsightが面白いのもそこです。意識がないのに出来ることがある。しかもそれはたんに信頼度の低い感覚情報を用いているからというわけではないらしい(「near-threshold visionではない」)。これまでの道具ではもてあますようなところをこそ進みたい。解ける問題ではなく、解きたい問題を。

革命は天から降ってこない。アインシュタインだってワトソンとクリックだってその当時の問題を答えることによって革命を果たしました。科学の問題圏から、そこを拡張するような形でブレークスルーが起こるであろう。そういうヒューリスティックスでもってわたしはやってます。

「このブログで書いていることが呼び水となって、そういうことを語れる場を設定することが出来るんではないかと思うのです。」とわたしは書きました。呼び水とは曖昧な表現をしましたが、率直に言ってしまえば、ここで書いているような話題を共有できる人とこそ意識や脳について語りたい、ということです。これはqualia-MLを見て私が学んだことでもあります。

0) さて、最初の問題に戻りますが、やっぱそれでも現在の形式とそれに付随した倫理に縛られたかんじの現状をなんとかしたいというところはあります。ま、私自身としてはどちらかというともうそろそろ違った方向性にしたほうが良いとも思ってます。論文コメント日記をやめる、ということではないのですけれど、もっとアイデアを綴ったり、あけっぴろげにいけるようにしたいんです。その方が私らしいですし。極論とちゃぶ台ひっくり返しと自滅ネタとを用いて人の心に切り込むように語っていたのではなかったろうか……昔の俺は。


だいたいこんなもんでしょうか。あとは落ち穂拾い。というか文章作ったけど流れに繋げられなかったものをパラグラフごとに:

  • クレジット問題への配慮で「誰かにこう言われて、自分はこう考えた」というコミニュケーションの現場を排除してゆくとどうしても、芸風が自分へのつっこみになる。自分ボケ、自分ツッコミ。どこか独り言テイストが出てきてしまう。そうならないようにするためのコメント欄とトラックバックなんですけどね。未解決。
  • 日々の仕事について書けないのは今の仕事の責任者ではないから、といったん言ってみる。でもそんなの他の仕事でも同じじゃん、っていうことで、誰だって守秘義務のあること、相手がいることとかを書いたりしません。一方で、自分が責任者になったら書けるかっていると、そうでもない。自分の上司のブログにお小言とか書いてあったら嫌っしょ。部下がなんか書かれてないかと冷や冷やしながら毎日ブログをチェックしてる、なんてことになったら上司だって嫌っしょ。生徒のこと書いてる実名の教師ブログとかあったらおたがい嫌っしょ。そういうのがしたかったら匿名ブログにするわけです。さてここで実名ブログ、匿名ブログという問題になる。表だっては言いにくいことを率直に書くことを大切にする空間というのがあって、そこでしかできないことがあると思います。でも、たぶん学術的な議論には向いていない。でも私はあくまで学術的な話をすることに興味があった。だから徐々にこっちの方向に移ってきた、というところがあります。
  • プライバシー問題ですが、偉くなっちゃうと往々にして華麗な交友歴みたいなの書いちゃうようですけど、それは違うんではないかと思うんです。
  • Alva Noeのsensorimotor contingencyとかVarelaのenactionとかってのはメルロ・ポンティを下敷きにしてます。浅田彰の「構造と力」ではメルロ・ポンティを動物的な予定調和の世界であるというような言い方で対比させてラカンを導入する。(「生の水先案内人である本能は、それらのゲシュタルトの機能的な意味を正しく読み取って、有機体を安全な水路への導いていくのである。このような生の世界のヴィジョンにこそ、メルロー=ポンティの発想の源泉であると言ってよい。……ラカンもまたゲシュタルト理論に充分親しんであり、動物までの水準においてはそれを肯定する。決定的な違いは、メルロー=ポンティがこのヴィジョンをそのまま延長した上で人間を論ずるのに対して、ラカンは人間に関してこのヴィジョンが完全に破綻するというところから出発する点にある。」p.136) メルロ・ポンティをちゃんと読まなくっちゃぁいけないんで即断できないのだけれど、これ自体はなんで私が現象学ベースの話に惹かれるかと合致しているかもしれない。つまり、non-humanを扱い、そのレベルでのconsciousnessをメインに考えていることの反映かもしれないってこと。この意味ではやっぱ、ポイントは言語だと思うんですけど、どうもそちらにはいまのところ手が伸びないんです。
  • わたしは目立ちたがり屋ですけど、政治好きではないです。群れるのは好きでない。人垣の中心にいたことはないし、いたくない。飲み屋で片隅の方でゆっくり語り合えればよいのです。でもそれをするのがいかに大変なことか。

あー。いろんなことを同時に書きすぎてしまいましたがこのままいきます。いちおう一週間寝かしておいたんでこのあたりでGO。班会議の酒の肴を兼ねて。正直に書きすぎたところについては「あとで消すかも」メソッドで。

コメントする (2)
# がや

ここに書かれてあること全て同感(or 個人的に好きなスタンス)です。しばらくして、あるいは、この日記を消したら、また、いずれ、何度でも同じこと書いてください。その度にきっと勇気づけられます。

来週、札幌で、また。

# pooneil

どうもありがとうございます。相変わらずレスポンスがはやい、というか名前を挙げたことで引っ張り出してしまいましたね。
文章を見直してみると、あんま消す消すって書くのももったいぶってるような、あんまかんじのいいものではありませんでした。このまま残しておきます。
こちらのほうはといえば、統合脳のポスターの図のアップデートがまだ残ってます。終わらない土曜日。それではまた札幌で。


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