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■ わたモテとSAD(つづき)

以前「わたモテとSAD」というブログ記事を書いたことがあるのだけど、そこで言及したKOTAKUの記事を再読してみた。

Kotakuの記事は「わたモテはSADを嘲笑していて許せない」という論調だが、それには同調できなかった。なぜなら著者の二人がSADもしくはそれに近い立場であっただろうと想像できるからだ(じっさい、何巻かのあとがきにそのような記述がある。)。そういうわけで私にはSimone86のコメントがいちばんしっくりきた。

つまり「SAD当事者にとっては『こういう経験は自分だけのものじゃないんだ』といったセラピー的効果がある。」「一方で、この番組を評価している人がみなこの苦痛を経験していると考えたとしたらそれは間違いであることも確か」(超訳的まとめ)

じっさいSADと診断された人でなくても、日常でそういった経験をすることは(私を含む)多くの人にもあるわけで、だからこそそれを誇張した感じで描かれるのを、どこか自分の一部として読み、どこか突き放して、苦いユーモアとしてこの作品を読むことができるのだと思う。

たぶん、そういう経験を共有していない人には「この作品のどこが面白いのか、さっぱりわからない」ということになるんではないかと思う。(逆に感情移入しすぎて、突き放して見れないというのもある。後述。)


じつのところ、環境次第でだれでもそういう状況は起こるのではないだろうか? 私の例を挙げると、海外のラボに行くと言語の壁で雑談とか全部は聞き取れないから、周りが笑うのに釣られて笑ったり、いきなり自分に話題を振られて(「マサトシ、日本ではどうなんだい?」)、キョドった応答をしてしまったりとか。

海外での経験に関してはこちらにも書いた:「ある闘いの記録」

最近は、次男のソフトボールチームの関係でお母さん方と会って話する機会が増えているのだけれども、共通の話題がソフトボールのことしかないから、これがしんどい。ソフトボールチームの忘年会に行ったら3時間、ほとんど面識のない人たちと飲むことになって、はじめの一時間は頑張って話題探して会話したが、後半はもう誰にも見られないところでスマホいじってた。あれは辛かった。あのとき俺はまごうことなきボッチだった。

大学生くらいの頃に弁慶かどこかのラーメン屋に行ったときに、注文を飛ばされたらしく30分くらい(<-誇張?)ずっとラーメンが来ないで放っておかれて、泣きたい気持ちになってそっと席を立った経験がある。先日栄の吉野家では5分近く放置されたので店員に声をかけて注文した。俺、成長したよ。


わたモテに関しては私はどちらかというと、主人公に感情移入しすぎて読んでいて辛くなる、という意味で楽しめないというところはある。それはTogetterの「"恥をかくシーン"が苦手な人たち」で話題になった「あの感覚」とたぶん同じことだと思う。

この感覚を指し示す言葉として、vicarious embarrassmentという概念があるそうだ。こちらの記事が詳しい:「あの恥ずかしい気持ちには名前があった」 さらに脳機能イメージングの研究もあったりする:Your Flaws Are My Pain: Linking Empathy To Vicarious Embarrassment


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