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■ 妄想(delusion)と幻覚(hallucination)の違いについて

Keisuke Suzukiさんとのツイッターでのやりとり(20120717)。

ksk_S 誰と話してたときだったか忘れたけど、ラバーバンドで元の手の温度が下がるのも面白いけど、ヒスタミンレベルまで下がるのはすごいねという話がでた。認知における自他が、免疫における自他と一致する必要性はないのに。

ksk_S あと、ちょっと不思議なのが、身体所有感や、運動主体感、自分の声や、思考ですらも自分に属してる気がしなくなる「妄想」が起こりえるのに、視覚にはその手の誤帰属が起きるという話がないということ。Derealizationはそれなのか?ちょっと違う気もする。

pooneil @ksk_S たとえば「今見ている視覚像はわたしではなくて別人が見ている」という信念ってこと? たしかにあり得なさそう。>> 視覚にはその手の誤帰属が起きるという話がない

ksk_S @pooneil その通りです。視覚は自らが視野の中心であるという感覚に揺るぎがないような。metzingerのOBEの議論でも、弱い一人称性は常にカメラのある位置に立ち上がる。

pooneil @ksk_S 身体性にもとづくagency自体はTPJとかあのあたりで作られるのだろうけどとにかくそっちはいろいろ揺らいで、外界にそのcontentを投影しているだけっぽい視覚の方は揺らがないというのは、あたりまえのような、そうでないような、面白い事態な気がします。

pooneil 「我思う、ゆえに我あり」ではなくて、「我見る、ゆえに我あり」?

pooneil 視覚では視覚のcontentはいろんな錯覚で揺らぐのと同じように、agencyは体性感覚や固有感覚でのcontentなので揺らぐ、と整理できる? 視覚では見る側が揺らがないということではなくて、端的にそれは視覚でのcontentとなっていない(視覚にとって外部である)ということ。

pooneil でも変かな。われわれが眼や頭を動かして視野像を繋いで視覚世界を作るというときにはその自己の運動は視覚にとりこまれているわけで、ほかでもない「わたし」が眼や頭を動かしたのであって、誰か他人ではない(とまでいかなくても、世界が動いたのではない)、という情報は持っている。

ksk_S @pooneil 身体性の感覚はagencyにしろownershipにしろ揺らぎますね。外界の投影としての視覚は、常に「外」なので揺るぎなくて、主体としての自己と帰属された自己が入り交じる身体感覚は、混乱しやすいということなんですかね。

pooneil @ksk_S そっか、「主体としての自己と帰属された自己が入り交じる」ここが今の話の本質ですね。

ksk_S @pooneil 何がcontentかを考えると整理できそうな気がしますね。気になるのは視覚はhallucinationは起こるけど、delusionalにはならないという点。身体の帰属自体がある種のdelusionだと考えると、それも自然な気もしますが。

pooneil @ksk_S そもそもhallucinationとdelusionの違いが分かってないのだけれども、hallucinationは知覚のcontentのレベルで、delusionはその知覚を元に判断(表象)している表象部分? 妄「想」っていうくらいだし。仏教でいう受と想の違い。

pooneil いや、ちがう、端的に日常言語的に、hallucinationは知覚のレベルで、delusionは思考のレベルだと理解していたのだけれども。

ksk_S @pooneil hallucinationは本来ならそう知覚されるはずべきものとの「ずれ」、delusionは世界とはこうあるはずものとの「ずれ」。低次か高次かという違いな気もするし、delusionは何か暗黙的で大きな世界観とのずれが際立っている印象。

pooneil @ksk_S なるほど、そこでprediction errorの出番ですね。どのスケールでのエラーなのかの違いか。

ksk_S Antonio Damasio, et al "Persistence of Feelings and Sentience after Bilateral Damage of the Insula"

ksk_S insular失ってもfeelingは残るのか


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