« 子供と花火 | 最新のページに戻る | 自分で自分をくすぐる話 »

■ Science Anosognosia(疾病否認)論文

7/20のエントリからの続きです。ラマチャンドランの「脳のなかの幽霊」から抜き書き。

脳卒中で入院しているドッズ夫人は自分が入院していることなどの状況に関してはよくわかっているのに、自分が左手を動かせないことをけっして認めようとしない、というところの記述です。

「手はどうですか? のばしてみてください。うごかせますか?」
ドッズ夫人は私の質問にややむっとしているようだった。「もちろん動きますよ」
「右手を使えますか?」
「ええ」
「左手はどうですか?」
「ええ、左手も使えます」
「両手とも同じくらいしっかりしていますか?」
「ええ、両手とも同じようにしっかりしてます」
p.175
さらに、ラマチャンドランはドッズ夫人が言っていることと視覚情報とが矛盾していることを指摘したらどう対処するかを調べます。(前にも書きましたように、疾病否認は半側空間無視を伴うことが多いので、ふだんは患者さんはその視覚情報自体を無視しています。そこで医師が無視している視覚情報に注意を向けるように患者さんを誘導したら何が起こるか、というわけです。)
「ドッズさん、右手で私の鼻をさわれますか?」
彼女は何の支障もなくそうした。
「左手で私の鼻をさわれますか?」
彼女の手は麻痺したままからだの前におかれていた。
「ええ、もちろんさわっていますよ」
「実際にさわっているのが自分で見えますか?」
「ええ見えます。先生の顔から1インチと離れていません」p.176
ドッズ夫人は視覚情報よりも、自分の左手は動くという信念を重視し、その矛盾を作話によって対処しています。
私はもう一つだけ聞いてみることにした。「ドッズさん、手をたたけますか?」
彼女はあきらめたように辛抱強く答えた。「もちろんたたけます」
「たたいてもらえますか?」
ドッズ夫人は私の顔をちらっと見て、右手で手をたたく動作をした。体のまんなかあたりで想像の手とたたきあっているようなしぐさだった。
「いま手をたたいていますか?」
「ええ、たたいています」p.176

このシーンからこの章の題名「片手が鳴る音」が付けられています。 白隠の公案の「隻手の音声」ですな。

この記述のほかにも、「今日は肩が痛いので左手を動かせない」という言い方で対処する例、麻痺している左手を自分の手と認めず、死体の腕がベッドの中に入っていると主張する患者さんの例などの記述があります。

この症例で重要なのは、視覚情報を凌駕するほどに、自分の腕は指令通りちゃんと動いている、という信念が強いということです。そしておそらくそれは、麻痺した腕に運動指令を出したにも関わらず、それが正しく実行されたというふうに内部でモニターしている機構が感受したことに基づいているのでしょう。視覚って他のモダリティよりもものすごい強烈なものだと一般的には考えられているわけですが、それがひっくり返るところに驚きがあります。(「百聞は一見にしかず」もいったん見てしまったものの信憑性の強さを強調しているわけです。もっとも、このばあいの視覚と聴覚が示している情報はそもそも直接性が違うのでmisleadingですが。)

そういうわけで、身体図式の問題としても、out-of-body experienceとか、もっと身近な例でいえば、金縛りとかで起こっていることとつきあわせて考える必要があるでしょう。金縛りを同じモデルで考えてみましょう。[運動の目標]と[実際の運動をsensory feedbackとしてモニターしたもの]との誤差を修正するようなループと、[運動の目標]と[運動指令から実際に実現したであろう運動を内部モデルによってfeedforward的に作ってやったもの]との誤差を修正するようなループとがあるというわけです。金縛りでは運動目標を立てて、運動指令は出ていて、しかし実際の筋肉の収縮は起こっていなくて、動いていないというsensory feedbackは戻ってきているのだけれども、内部モデルでモニターしているところでは動いたように感受している、という感じではないでしょうか。二つのループの間での矛盾が私たちをあわてさせるというわけです。なんつーか金縛りの時の空振り感ってのは、内部モデルとしては動いている感じがあるからではないですか、たぶん。このへん微妙ですな。というかそもそも金縛りって英語ではなんと言うんでしょうか。

というあたりで中途半端にこの項ネタ切れ終了。

コメントする (2)
# いととんぼ

関連の話題に、他人がわき腹とかを急にさわってくるとくすぐったいのに、自分でくすぐっても、ちっともくすぐったくないという現象がありますね。あれも、自分でくすぐるときには、運動司令とその帰結の内部モデルと、さわれたという感覚情報のすりあわせができるのに対して、人からくすぐられたときには前者がないことが関係しているという主張があります。20日に引用されている論文のBlakemoreさん(かのColin Blakemoreのお嬢さんだそうです。1、2年前、淡路島でのシンポジウムにこられていました)がそのような研究をされていました。しかし、小さいころは、なんであんなにくすぐったかったのか。最近は、くすぐってくれる人もいないなあ、ナンテ。

# pooneil

自分で自分をくすぐる話はSarah-Jayne BlakemoreのNature neuroscience '98 "Central cancellation of self-produced tickle sensation" http://www.nature.com/neuro/journal/v1/n7/abs/nn1198_635.htmlですね。このへん追記しておきました。Sarah BlakemoreはColin Blakemoreの娘さんなんですか。Colin Blakemoreのほうは現在は社会に向けての活動の方が忙しそうですね。なお、我が家はまだ子どもが小さいので毎朝子どもたちとくすぐりあいっこしてます。


お勧めエントリ


月別過去ログ