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■ 「給料はあなたの価値なのか」から「大腸菌の予測」まで徒然と考えてみた (20240922)

夏アニメで継続して観ているのは「逃げ若」「推しの子」「マケイン」「ロシデレ」まで。

秋アニメはいまのところ視聴予定は「リゼロ3期」だけで、「アオのハコ」「結婚するって、本当ですか」は1話の出来をみて考慮する。


「ふつうの軽音部」の38話で「バビルサの牙が折れた」ってのが繰り返されてて、なんか意味ありげだなと調べてみたら、バビルサってあれか、「牙が伸び続けると脳に刺さる」「性淘汰で牙が長ければ長いほど強い」とかでネットで話題になったアレか。「才能に溺れる」のメタファーに使われてそう。

wikipediaではそこまで書かれてないのだが、「牙は脆く、オス同士の闘争で使用されることはほとんどない」とかは面白い。


ブルスカに来てからはコミックやアニメを題材に語るようになった。文章修行の一環として(言い訳〜)。

Twitterで書いてたときは、学問的なことを書く本アカと、オタク語りを鍵付きアカで分けてた。

でもブルスカに移ってきたら、関係者はほぼ誰も見てないということが判明したので、2つに分かれていた人格を合体して書くようになったら、ほとんどオタク語りだけが占有するようになってしまったのだった。

結果としてザッカーバーグの「2つのアイデンティティを持つことは整合性の欠如の一例だ」を不本意ながら実践していることになった。


ザッカーバークの「2つのアイデンティティを持つことは整合性の欠如の一例だ」については2012年に「そんなのリア充の強者の論理だろ」という趣旨でブログ記事を書いてる。

今もその考えに変わりはないけど、こうして自分のブログを読み返してみると、コロンバイン高校銃乱射事件やスクールカーストが大きな影響を与えていたことがわかる。(当時すでに43歳だったんだけど。)


さいきん「給料はあなたの価値なのか――賃金と経済にまつわる神話を解く」 ジェイク・ローゼンフェルドを読んでる。

米国についての分析なんだけど、民主党も共和党も「良き仕事を取り戻す」(=自動車や鉄鋼などの製造業)を選挙民に訴えかけている、という話が第6章で取り上げられている。

  • 近年米国内に製造業が戻ってきたのは、中国などに作られた工場の人件費が高騰したから。
  • しかし米国内に戻ってきた製造業の給与は昔の水準には戻らない。
  • なぜなら機械化によって製造業における人件費は大幅に抑えられるようになったから。

こういったことが語られる。ここでの製造業での機械化というのが50年前とかの現象であるということは重要。50年前のことが解決せずに今の問題となっている。いまのAIによる社会変動でも同じことが起こるだろう。つまり、これから50年先になってもたぶん解決しない。


AIによって人件費が大幅に抑えられ、給与の不均衡はますます激化する未来が来るだろう。

よくある「そのようにしてあぶれた者はべつの職業に就くから問題なし」というネオリベ的言説は先述の製造業での機械化の問題を考えれば、正しくないと言えるだろう。

(そもそも社会構造の変化というマクロなものと、各個人のかけがえのない人生への影響というミクロなものを混ぜて語る詐術がここにはある。)

こういったネオリベ的言説を程度の差はあれ誰もが(自分も)受容している状況というのをなんとかしたい。この点で自分はマーク・フィッシャーの「資本主義リアリズム」に書かれている問題意識を共有している。

マーク・フィッシャーは「アシッド・コミュニズム」という概念を提出したけど、それを十分形にする前に自死してしまった。部分的に残された文章をいくつか読んでみたけど(たとえば序文)、評価可能な形にはなってないと思う。(もしそれが「60年代カウンターカルチャーからありうるべき未来を辿り直す」で要約できるのならば、少なくとも「反逆の神話」で提示された問題に応答できないとダメでしょう。)

でももしそれが「ネオリベ的価値観以外がありうると気づくためには、われわれの「現実」に対する見方のレベルから買えてゆく必要がある」ということならそれはわかるし、私自身が学問を通して目指していることでもある。


社会は力学系なのだから、だれか黒幕がいて制御しているわけでもない。かといってそのようなトップダウンでの制度設計や個人によるボトムアップの行動変容が無駄なわけではなく、それらによって社会の相転移は起こり得る。

そういう見方からすれば、社会科学的な意味での制度設計の提案自体は無駄とは言わないけど、小さな変更は力学系のflow fieldを変えない。つまり、いろいろやってもお決まりの状態へと回帰する。(これがXTCの"complicated game"の歌詞で書かれていることだ。先日のブログ記事20240911)

むしろ人間の「現実」感を変えることのほうが社会を変えるだろうし、その意味で「現実」感を変えるテクノロジーが重要だと思う。そこに自分も寄与できたらと考えている。とはいえそこで決定的となるのは、VRのようなデバイスではなくて、もっと予測不可能な別のものだろうと自分は想像している。

「VRで現実感を変える」って言葉には、ビジネスの文脈での「バックキャスティング」、そしてネオリベ的な「選択と集中」による決め打ちを感じてしまう。力学系的視点からは、もっともっと、予測つかないものになるほうに賭けておきたい。

2019年12月の段階で、だれもがその先にコロナ禍を想像していなかったように、そういう意味での、想像を超えた、しかし起きてしまえばそれは100年に一度、スペイン風邪以来で起こってもおかしくなかったもの、そういう「ブラックスワン」に来る方に自分は賭けておきたい。

ここで「賭ける」とは、ブラックスワンに頑強であるように準備するという意味で、これがタレブの「反脆弱性」で言わんとしていることになる。


「バックキャスティング」について補足しておく。バックキャスティングの定義である「目的のためにいまをデザインする」、これ自体は構成論的なアイデアであって、けっして悪くないはずだ。(「未来を予測する最善の方法は、それを発明することだ」by アラン・ケイ)

でもことビジネスの文脈で「バックキャスティング」と語られると、そんな予測できないものについてあたかも予測できるようにデザインするという考えが、ネオリベの最たるものである「選択と集中」というアイデアと同類になってしまう。このことがなんかおかしいと思ってるんだ。

いわば、バックキャスティングには半脆弱性を持たせる必要がある。


これと関連して先日飲み会で語った話題がある。「大腸菌は予測ができる」という論文(Science 2008)がある。

つまり、大腸菌は人間などの生き物の体内に入ると、環境温度が上がり、酸素濃度は低下する。このとき大腸菌は、環境温度の上昇から酸素濃度の低下を予測して、酸素を使った代謝の遺伝子発現を抑制する。それの証拠に「環境温度が上がると酸素濃度は低下する」という相関関係を崩した条件(たとえば「環境温度が上がると酸素濃度は上昇する」とか)で大腸菌を培養すると、大腸菌はそれに適応できる、つまり予測をしている、というわけだ。

この話の種明かしとしては、個々の大腸菌が予測をしているわけではなくて、集団としての大腸菌が選択されているからこういうことが起こるというわけだ。つまり、大腸菌の中には「環境温度が上がると酸素濃度は低下する」だけでなく、「環境温度が上がると酸素濃度は上昇する」ことが可能な状態を保持している個体もいて*、そういう個体が選択されたという話**。

(* この機構はエピジェネティックなものだと思うけど、そのあたりは自分は調べてない。)

(** この話はダニエル・デネットのkinds of mindで出てくる「ダーウィン型生物」の一例となっている。私の大学院講義「意識の科学入門」でも扱ってる。)

長々と大腸菌の話をしたのは、「どうして大腸菌はわざわざ「環境温度が上がったときに代謝を上昇させる機構」を保持していたのだろうか?」ということ。それはほとんどの環境で無意味な特性であって、実験室環境で不自然な状況を作ることで現れた特性だ。でも大腸菌はそれをわざわざ保持していた。これがタレブの言う「半脆弱性」の一種であり、生物が生物であるために必要な重要な要素なのではないか。

Varelaのオートポイエーシスの条件(生物学的自律性)にDiPaoloは「適応性」と「規範性」という2つの概念を付け加えたのだけど、ここでの「適応性」とはこういう「半脆弱性」を含むのではないか。

そうして考えてみると、「半脆弱性」というのは想定されていない外部からのアタックに対してなんとかもがく能力であり、もがいたうえで絶滅することもあるのだけど、生き延びることもある、そんな確実性はないなにかだ。(それは生きているものが不可避にさらされている、いつでも死にうるという状態precaliousnessを反映している。)

そしてそれは、Ross AshbyがHomeostatを作ったときに、感覚運動ループでは対処しきれない外部に対処するためにホメオスタシスによるリセット機構を作ったアイデアの源になっている。

(感覚器ではなく、体に物理的、科学的に影響を与える得体のしれない外部を「生命の危機」として扱う、これが我々が「情動」を持ち、理性以外の回路を使って予想外の状況に対処することのモデルとなっている。)


…とこういうことを今書いている本で書こうとしているのだけど、考えをまとめるために雑多なまま文章化してみた。雑多なままというところが重要なんだ。整理すると大事ななにかが消えてしまうので。

これらはぜんぶ繋がってるんだ。「3月のライオン」の中で主人公の桐山零が将棋のことと川本家のことを考えるうちに両方について頭脳がフル回転してゆくという描写がある。自分はあれにはなんか親近感というか、そうありたい気持ちと、じっさいそういうふうにやってた気がするという記憶とか、そういうものが駆動されてくる。

つまり、自分の中では、ネオリベ的なものへの反感と研究の動機がつながってエンジンのように働いている。


意図せずどんどん話が広がったけど、話を広げるのは意図して行った。今回は下書きをせずにそのまま書き続けた。それを整理して、今回のブログ記事にしてみた。

マーク・フィッシャーが映画とテクノでやるように、わたしもオタクカルチャーでやってみたい。でもありがちなサブカル語りにしたいわけでもない。そういう文体を作れたらいいのだけど、それって簡単じゃないな。


拾遺: 力学系云々という言説についても自分史とつながっている。浪人生の頃に読んだ岸田秀によって相対主義のドツボに長い間ハマっていた。学部生の頃に読んだベイトソンがそれと合体して、「システムにおいて無力な私」というという構造主義の相対主義的理解に留まっていた。だから、そのシステムのツボを付くことで相転移が起こり得るという力学系的視点の獲得には救いがあった。

じつのところベイトソンにはシステムのメタレベルを上がり下がりすることによってそういうドツボからの解決法が提示されていたのだけど、それを理解できたのは、オートポイエーシスを理解できた後だったと思う。そしてそれが、1998年くらいにブログを書き始めたころのことだった。


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