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■ 一回性の現象と統計的な現象との連続性に注目してみる

カウフマンの新著"A World Beyond Physics"のレビュー"The new physics needed to probe the origins of life"が面白かった。

この文の中でカウフマンの"the nonergodic world"という概念に触れていて、タンパク質として可能な、200の20乗の組み合わせのうち、まだほんの一部しかこの宇宙の歴史上に現れてない、つまりエルゴード性が成り立たないようなところで、進化という一回性/歴史が起きているようなのだ。

これを見て考えるに、このような来歴に縛られた発展過程を見ているというのは、進化でどのように種が現れたかとかいう話だけでなく、生命の発生においてもそうであるらしい。

そう考えてみるとなんだかわかってきたのだけど、この「non-ergodic/historic/一回性」であることと「ergodic/statistical」であることって、スケールに依存した相対的なことなんだな。

進化を一回性の現象として見ているのは、われわれにはこの地球での進化しか見えてないからであって、(おそらく存在するであろう)宇宙の他の星すべてでの生命と進化をまとめて見る視点からは、進化すらも統計的な理論として捉えることが可能になる。でもそれができないから我々は進化を、その履歴に影響される現象としてしか理解することができない。

もし我々が分子のサイズで周りの気体分子を観察したなら、それはある分子がぶつかってそれがこっちに向かって跳ねてきたといった、ビリヤード台の解説のようなものになり、それは一回性の、履歴による、因果としての描写とならざるをえないだろう。(ここで、空間スケールを小さくしたから時間スケールも短くして、時間平均が充分取れないものと仮定している。)

そうしてみると「一回性の科学なんてものはないのだから、一回性の減少に見えるものは、エルゴード性があるスケールに(仮想的にでも)視点を持っていったうえで扱うしかない」という立場もある気がして生きた。

たとえば、生命の発生についてたまたまRNAができたことによる履歴の効果でこういう生命ができたことにこだわらずに、統計的にはこれこれこういう生物もできた、という例を多数生成させたうえで、それらをまとめて説明できるような統計的な法則こそが生命を説明する法則であるのではないか。一回性の事実にこだわっているかぎり、生命と進化の科学的な説明はありえない。

意識とか心の発生についても同じ理屈が成り立つだろう。意識や心ならすでにたくさん人数あるだろってことにもならない。なぜなら、一人の人間が、しかも他でもなくこの私が、10万人の人間の主観的経験を入れ替わり経験して(しかも充分長い時間、無相関な形で)、そのうえでそこから法則性を導き出さなければならないという帰結になる。たぶん。あくまでもその立場ならば。

もしかしたらいまアタリマエのことを言っているように見えるかもしれない。というのも構築主義の人はすでにそれをやってるように見えるから。しかしそこで可能な一つの例を生成するのと、複数生成する法則を見つけるのは別の話ではないだろうか?

自分で言ってて手に負えなくなってきたのでここまで。


先日のこの話題に関連することをEvan Thompsonが言及してた。つまり、FEPはエルゴード性を前提としているだろってこと。

でもそれは上にも書いたように、コインの裏側というか、連続したものの両端であって、われわれは普段はそんな不確定性な一回性を生きているわけではなくて、必要に応じて現象学的に見るとき、もしくは瞑想を通して見るときにそのような一回性が見えてくるということではないか。そしてそう見ることによって初めて両者がどのように世界を作っているかが見えるようになるのではないかと思うようになってきた。


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