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■ 表象、光点、ベイトソン、オートポイエーシス
TMSや微小電気刺激によるphospheneはたしかに視覚なのだろう。でもそれは知覚そのものを作っていると言うよりは、すでに視野が用意されていて、そのcontentを書き換えてやったと考えた方がよいのではないかという気がしてきた。
盲視の人は、明らかにMTは活動しているのだろうけど、内観を聞いた感じどうみても視覚という感じはしない。アルヴァノエの本で似たような議論があったときには釈然としなかったけど、知覚のcontentの表象とか操作とかよりは、視野という場そのものを作ることの方を考える方が意識研究なんではないかという気がしてきた。
まだ充分飲み込めた気はしない。でも、表象がsurpriseでありprediction errorであるという構図を進めていくこと以外の道を探るとしたら、こういうことを考えるしかない。でもってこれってたぶん、現象学だな。どうすればよいんだ。
ベイトソンの問題圏というのは徹頭徹尾表象の世界なのだな。違いを生み出す違い、メタになるプロセスと表象。一方でオートポイエーシスは根本的には内部の視点の話で、そこからカップリングとかを使って表象とかを作ろうとしているわけだが、それは成功しているだろうか。
外側から内側を推測しようとするのと、内側から外部を構成しようとするのと、両者は向きの違いの問題であって、どちらも同じくらい原理的にムリがあるのではないか。
オートポイエーシスで「カップリング」という装置を使って表象の世界と行き来しようとしたのと同じように、ベイトソンの「プロセスと表象との間でジグザグとレベルの上下する」という装置を使って表象と内部のダイナミクスとを行き来しようとした。少なくとも私はそのように読んだ。
反表象主義なんて極端なことを言う必要はないのだけれど、ミラーニューロンとかPPCニューロンの捉えにくさってのは「生態学的な意味づけを持った行動」を表象の方から捉えようとするがゆえなんだと思う。って自分で書いててもいまいちピンと来ない。「行動」をどう捉えるかなんだと思うのだけど。