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■ invarianceの表象とかそのあたり(承前)

12月の仙台の研究会の時、たしか筒井さんの発表に関連してだったと思うけど、invarianceのコーディングについてコメントをした。つまり、刺激A,B,Cをあるカテゴリーとしてコードしていると言うとき、神経生理だとそれは刺激A,B,Cで同様な応答を示すことを指していたりする。

でもそれって、「刺激選択性がない」「刺激A,B,Cを区別する情報を持ってない」ってことであって、刺激A,B,Cのカテゴリーをコードしているとは言えないんではないだろうか? 同様なことは他のinvarianceについても当てはまる。

これはべつに哲学でもなんでもなくて、計算論的に言っても、(顔のコーディングを例に取れば) 顔A,B,Cを同じように表象することと同時に顔とそれ以外の物体とのあいだで違った刺激応答をすることの両方が必要となるはずだ。まだ計算論的ではないな。

計算論的に言うならば、刺激選択性自体はencodingだから、invarianceをコードするのにencodingの部分でおなじになっている必要はない。行動でも脳内表象でもなんでもいいけど、その情報をread-outするとき、decodeするときに刺激A,B,Cを同じように扱ってさえいればよい。

さらにここまで考えてみると、そもそも反応特性(=tuning curve)というのは純粋にencoding modelだろうか?という疑問もわく。

Attentionを含むtop-downのmodulationというのはけっきょくのところ、read-outする過程をニューロンの活動に見ているのであって、視覚ニューロンのtuning curveのようなencodingからそれを読み出して行動と内部表象に使うdecodingとしてのニューロン活動もあるとすべきではないだろうか?

ただし、知覚-行動で分けるのはヘンな話で、ニューラルネットのhiearchicalな構造の各ステップでpredictive codingをしながらneuronの活動がsurpriseを消すようにtop-downが働くということ自体が、encodingとdecodingの小さなループを作っているということになるのだろう。

つまりなにを考えているかというと、ローカルにはこのようなループしかないのだけど、それを全体としてみると前頭葉が知覚皮質にトップダウンの信号を送っているみたいな図になって、それをトップダウン的注意とか言ったりするのであって、それはモジュール説を前提とした認知心理学的な概念であって、マー的な計算論を徹底すると、predictive codingとトップダウン的注意とは計算論の別のレベルとなる。

しかも計算論ではトップダウン的注意という言い方は不必要で、なんか明示的なパラメータの最適化みたいなものに置き換える必要があるだろう。たとえばspeed-accuracy tradeoffを前提とした上での得られる報酬の最大化みたいな。

話を戻すと、encoding-decodingを脳内でニューラルネットワークが行っていることとして捉えてみると、素朴心理学的概念が雲散霧消したりしないかということで、そう書いてみるとそれはコネクショニストの描いた夢をそのままなぞっただけかもしんない。

コネクショニスト的な概念を元にすることでなんでも消せる希望がわくので、「意識」も消して見せたくなる。これが「消去主義的立場」の動機ではないだろうか? 余計なことを言った。

ふたたび話を戻すと、初期視覚野のニューロン応答がencodingであるのはいいとして、そのmodulationはdecodingの過程が混ざっていると捉えることが出来るだろう。(ちょっとこのへん雑すぎ) では、運動情報の表象はencodingか? ちとわからなくなってきた。

なんかこういうことを考えたら、表象じゃなくて、行動側から考えたり出来ないだろうか? あと落ち穂拾いとして、いま書いたことはRizolattiの「注意のpremotor theory」というやつとたぶん関係するのだろう。

トップダウン注意が行動/運動と分かちがたく結びついているのはつまり今書いたようなたくさんのループの連なりをステップごと、もしくは違った空間スケールで、top-down attentionと言ったり、運動準備と言ったりするからなのだろう。


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