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■ 意志決定の曖昧さ1

研究会予習シリーズも時間的にこれが最終回。私が座長をする予定になっている、東大先端研の渡邊克巳さんの講演に関して予習することにします。研究会要旨集で参考文献を挙げてくださってます。このへんから行ってみましょう。

とりあえず2番目の論文から読み始めました。Science 7 October 2005: Vol. 310. no. 5745, pp. 116 - 119 "Failure to Detect Mismatches Between Intention and Outcome in a Simple Decision Task" Petter Johansson, Lars Hall, Sverker Sikström, Andreas Olsson。ファーストオーサーのPetter JOHANSSONという人はもともとスウェーデンの人だけど現在は渡邊研に在籍しているようです。

わたしたちは日常生活で意志決定をしてなにかを選ぶわけだけど、その意志決定と選択との関係がどのくらいあやふやかを示した論文です。

やってる実験はひとことで言えば、手品。被験者の前で実験者が顔写真が書いてある二種類のカードを左右の手に持って見せます。被験者にはどっちが好きか選んで指さししてもらう。被験者は実験者から選んだほうのカードを引いて、なんでそのカードを選んだかを答えてもらいます。んで、トリックが仕掛けられていて、たまに指さしたものとは反対の手のあったカードが被験者に手渡されます。ここが手品なわけですね。手に持ったカードを二枚重ねにしておけばいいわけです。

さて、被験者はカードがすり替えられたことに気付くか。これがなかなか気付かない。その場で気付くのはせいぜい5%とか。

では、気付かなかったときはその写真についてどうコメントするか。だって、こっちがいいと思って選んだはずなのに逆を選んでいて、しかもそのことに気付いていないんだから、なんでそれを選んだかコメントするのが難しいはずで。ひとつのパターンとしては後付けで説明を作ってしまう。つまり、現在手に持っている写真の顔についてあれこれこういう理由でこっちを選んだ、と言ってしまう(confabulation=作話)。もしくは逆にはじめに選んだときの写真の顔についてコメントしてしまう。たとえば、「なぜ選んだかというと、こっちの写真は笑っているから」みたいなかんじで。手元にある写真は笑い顔ではないのに。

そういうわけでわれわれはそういう状況において自分が選択したもの、選択した理由についてけっこう見逃している。けっこう曖昧だということがわかるというわけです。著者はこの現象のことを"choice blindness"と呼んでいます。

これに似通った現象はいろいろ知られています。目撃証言にかんする記憶の曖昧さに関する話がありますね。Schacterの本とかで出てるやつ。事件の目撃報告とかでは証言がいろんな要素によってゆがめられる。写真のリストから現場にいたと思われる人を選んだら、無意識レベルの偏見によって選択がゆがんだ。これもおそらくは本人は意識しているわけではないのですね。嘘をついているわけではなかった。

あと、ラマチャンドランの本で出てくる印象深い病態否認の例。右腕が動かないということを否認するために、いまは動かしたくない、とか動いてないのに動いていると言い張るとか。これもたぶん嘘をついているわけではないのですよね。

あと、論理的不協和理論とも大いに関係ありそうですよね。論理的不協和理論は言ってみれば「酸っぱいブドウ」理論です。「おいしそうなブドウがある」という認識(=内的条件)と「ブドウが手に入らない」という状況(=外的条件)があって、この二つが整合的でないために論理的不協和(cognitive dissonance)という状態を体験する。これを解決するために、変えようのない状況の方ではなくて、「おいしそうなブドウがある」という認識の方を変えてしまう。「あれは酸っぱいブドウだった。」というわけです。ところで、もはやクリシェとなった「勘違いしないでよ、べつにあんたのためにXXしたわけじゃないんだからねっ」も同じような分析が可能ですね。余談ですが。

このへんの関連性については著者は今回のScience論文の一番最後のパラグラフで

Classic studies of social psychology have shown that telling discrepancies between choice and introspection can sometimes be discerned in group-level response patterns (12) but not for each of the individuals at hand.

と書いていて、このreference 12というのがNisbett and WilsonのPsychological Review 1977 Vol 84(3) 231-259 "Telling more than we can know: Verbal reports on mental processes."(PDF)というやつでして、この世界の古典的論文です。ここに書いてある、「選択と内観の不一致」に関してはまた後述しますが、ともあれ、これまでの社会心理学的な実験で示されたことを個人のレベルでも示すことが出来た、という点がこの論文のノイエスであるようです。

Science論文とこのニスベットとウィルソン1977との関連については、Science論文の続編のConsciousness and Cognition Volume 15, Issue 4, December 2006, Pages 673-692 "How something can be said about telling more than we can know: On choice blindness and introspection"(PDF)でかなりくわしく扱われています。

ちなみにこれにたいするPatrick HaggardによるコメンタリがConsciousness and Cognition Volume 15, Issue 4, December 2006, Pages 693-696 Commentary on ‘How something can be said about telling more than we can know: On choice blindness and introspection’ James Moore and Patrick Haggardで、それに対する返答がConsciousness and Cognition Volume 15, Issue 4, December 2006, Pages 697-699 "Reply to commentary by Moore and Haggard"です。

さて、Science論文の意義を評価するために、もうすこしいろいろ調べてみましょう。(というか調べてたら面白くなってきた。これは大いにわたしのやっていることと関係します)。渡邊克巳さんはERATOの下條潜在脳機能プロジェクトの意思決定グループのリーダーでもありまして、この論文の意義も「潜在脳機能」という側面から見るとよくわかります。下條先生の「サブリミナル・マインド」の第1講「自分はもうひとりの他人である」ではまさに上記のニスベットとウィルソン1977に言及しています。

下條先生の「サブリミナル・マインド」を読み直して、さらに社会心理学の本なども読んでいろいろ調べてきました。次回は「フェスティンガーの認知不協和理論」、「ベムの自己知覚理論」、「原因帰属理論」といって「ニスベットとウィルソンの"Telling more than we can know"」までたどっていきます。


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