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■ わたモテが12巻まできて最高潮に面白くなってた

以前コミック「私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!」(わたモテ)についてブログの記事を書いたことがある。そのときは主人公のぼっち描写と社交不安障害(SAD)についての論考から興味をいだいて5巻まで読んだけど、主人公の空気系ぼっちだが肥大化した自意識でやらかした失敗談をギャグとして読ませるという構造に、読んでる側の共感的羞恥がきつくて中断してた。

でもここ最近になって「尊い」連発の熱い記事を何回か見かけたので、再開して11巻まで読み進めてみたら、すごく面白くなってる。主人公の下品でクズなキャラはそのままに、周りの人間模様が複雑化して話が動いている。

それでいよいよ12巻出たので発売日に購入して読んでみたが、予想以上に素晴らしかった。1-7巻くらいまでの「陰キャぼっちあるあるネタ」から8巻の修学旅行編以降では「青春群像劇」へと展開していたのだけど、12巻ではそれが最高潮に面白くなっている。でもこの変化は路線変更というよりは主人公の成長物語におけるひとつながりの流れであると捉えられる。

作品初期の主人公の目を通したクラスメイトの描写は、見下す対象でありモブキャラにすぎないあっさりとしたもので、名前すらも与えられていなかったのだけど、いまではみなそれぞれに人間味を持ち、それぞれの機微も併せて描かれるようになった。

それは主人公が「クラスのリア充ども」といっしょくたに見ていたところから「あいつらもけっこう大変なんだな」みたいな認識を経て、ひとりひとりを個別の人間として扱い、扱われることで、世界が明確に輪郭を持ってゆく過程を反映しているように読める。

これが1巻から6年かけて計画的に構築されたものなのかといったらたぶんそうではないだろうけど、でも結果として1−7巻が周到な伏線としてはたらいている。たとえば2年生の始業式での自己紹介でウケを取ろうとしてコケたことが伏線となって、2年の終業式の打ち上げで話題となったり、3年生の始業式での自己紹介へのネタ振りになっている。

一方でこのような変化は(主人公の内面の変化に対応しているだけではなく)中学生から高校生に成長していく段階で、いじめが子供じみたものであることが共有されて、学生生活の娯楽としてのいじめがなくなってゆくタイミングとも合致しているだろう。Web版最新の喪128以降でのキバ子はその流れに乗り遅れて、キョロ充としてのカッコ悪さが露呈したところが描写されている。(わたモテの主人公はあくまで空気系ぼっちであり、明確ないじめの対象ではないけど。)

そういうわけで、今後も展開から目が離せない。アマゾンのレビューも現在星5が96%と絶賛状態だし、売り上げも上がるんではないだろうか。いっそのことアニメ2期来ないかね!卒業式で完結するとしてコミック出版まであと2年くらいはかかるだろうからタイミングは悪くないと思うんだけど。


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