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■ 大泉匡史さん「意識の統合情報理論」セミナーまとめ(2/5)
前回のつづき。(全5回分の記事をつなげてPDF化しました。まとめて読むときはこちらを使うことをお勧めします:IIT20161115.pdf)
1. 統合情報理論の基本部分
IITの議論の構造としては、意識経験の現象的側面から意識の疑う余地のないものとしてaxiomsを置いて、それを物理的システムで実現するときに要請されるものとしてpostulatesを提示して、それを実現するmechanismとして因果のネットワークの持つ特徴を決める理論的モデルが構築される。
1-1. Axioms
AxiomsはIIT3.0では5つある。(以前はInformationとIntegrationだけだった)
- Exisntence: 意識は存在する
- Information: 意識はinformativeである (ある意識経験がAではなくてBであるというような意味において)
- Integration: 意識はintegrateされている (意識の中にcontentがいくつあっても、それは単一の経験として経験される)
- Exclusion: 意識は排他的である (たとえば、我々の経験は色付きの意識経験と色のない意識経験の両方が成立可能だが、色付きの意識経験があるかぎり、色のない意識経験を同時に持つことはない)
- Compositionality: 意識は構造化されている (我々の経験には右と左、赤と緑といった要素とその組み合わせがある。ノイズ画像(砂嵐)1と2の区別は情報は持っているが、構造化されていない。) 大泉さんによれば、これだけが意識のqualityに関わっており、上記の4つは意識のlevelに関わっている。
大泉さんの説明では、このaxiomというのはIITが考える意識とはこういうものであると区切るものである、とのことだった。それならば納得がいくかもしれない。たとえば「Exisntence: 意識は存在する」を入れた時点で「哲学的ゾンビの可能性」とか「意識とは幻想であり存在しない」という議論はあらかじめ排除される、と宣言しているのであって、IITはそういう意味ではハードプロブレムそのものを相手にしない、と宣言しているとも理解できる。じっさい、脳の状態と意識の状態とは同一であるとするidentityをこの理論では前提としているので、explanatory gapとかそういう議論は射程外にある。
なるほど、そうするとつまりこれはユークリッド言論でいう平行線公準みたいなもので、違ったものも考えうるわけだ。「意識は存在しない」から始まる理論があっても良い。(ついでに言えばaxiomsとpostulatesは数学でいう公理と公準に対応した言葉だが、これは自明さのレベルにおいてIITと数学で同一視するべきではないと大泉さんも言ってた。)
1-2. Postulates
それぞれのaxiomについてそこから要請されるpostulateがある。
- Information: (意識を持つ)システムは情報を生成しなくてはならない (ある意識経験がAではなくてBであるというような意味において情報を持っているならば、これはありうる状態から実際に起こっている状態を選んだという意味で情報理論的扱いが可能となる。「Informationとは"differences that make a difference"である」という考え方からcause repertoireとeffect repertoireという定式化が行われる。(注1))
- Integration: (意識を持つ)システムは情報を統合しなくてはならない (IITでは意識のcontentを説明したいのではなくて、そのlevelとboundaryを説明することに重きを置く。Integrationは意識の単一性とboundaryを説明するために要請される。)
- Exclusion: Experience is unique. (これはsplit brainの例を考えると分かる。脳梁切断によって2つの意識ができる症例があるが、これは健常者の脳でも2つの意識が左右の半球で成立しうることを示している。しかしそうならないのは、健常者の脳では左右の半球を合わせたひとつの意識が成立することで、左右別々の意識はexcludeされる、という要請postulateを導入したというわけ。)
- Compositionality: Elementary mechanisms can be combined into higher order ones. (これ自体は因果ネットワークのhierarchicalな構造を持っていることと、IITでいう"concept"がそのネットワークのサブセットの因果ネットワークとして形成されるという説明があったが、IIT自体では意識のcontentの議論はまだ不充分であるため、この部分の説明も不十分であるというのが吉田の理解。IIT3論文のFig.22がこれに関わっていることは分かる。)
ここでわたしがまず不満に思うのは「Information (意識を持つ)システムは情報を生成しなくてはならない」についてだ。無意識だって情報を生成するし、informativeである。そう考えてみるとIITのaxioms-postulatesの構造は「意識はこうだ」という話しかしていないのが問題なのではないかと思う。つまり、正しい意識の理論は「意識的状態は無意識的状態と比べてこう違う」という言い方になる必要があるのではないだろうか。
もしこの指摘をinformation postulateに取り込むのならば、「意識を持つシステムは意識を持たないシステムと比べてより多くの情報を生成しなくてはならない」といった、ずいぶんと切れ味の悪い言明になってしまう。Integrationだって、複雑な機能をこなすシステムは無意識でもintegratedである必要があるだろう(機能との関連はIIT3論文Figs.21,22で出てくるので後述)。 その点でExclusionはなにが意識に登り、なにが無意識になるかという対比を明示的に議論しているというふうには言える。
あともうひとつ言いたいのは、議論の構造としては現象的経験から導かれたaxiomsからpostulatesができて、それを可能とするmechanismsが決まるというふうになっているが、実際にはいろいろ後付け的にやってるので、「現象からスタートする」というIITの方針をface valueで受け取るわけにはいかない。たとえばexclusionはΦの挙動が神経科学的に整合的になるように後から付加されたものだ。前述のように無意識もinformativeなら、Informationのaxiomからpostulateへの移行には論理的ジャンプがあるともいえる。(この論理的ジャンプについては大泉さんはASCONEでも指摘されたと話していた。)
Compositionalityはinformationおよびintegrationのふたつで説明できてしまうのではないか、つまりaxiomとしてはredundantなのではないかという議論があったけど、参加者の方から「integrateされているけれどもtopographicalな関係がバラバラなネットワークを考えることが出来る」という指摘があって、これには納得いった。ただし、視覚経験が砂嵐みたいになっていても情報を弁別し、単一の意識経験として経験する有機体というのを想定することは可能なので、Compositionalityは意識にとっての必要条件ではなくて、あくまで人間の意識経験の分析からは妥当なもの、としか言えないだろう。
次回へつづく。
(注1) 「Informationとは"differences that make a difference"である」という考え方は意識は外側から見た情報ではなくて「内側から見た情報」intrinsic informationによって規定されるという議論のためにここでは引っ張られている。IIT3論文ではreferされていないが、この言明はベイトソンのSteps to an Ecology of Mindからとられたもの("In fact, what we mean by information—the elementary unit of information—is a difference which makes a difference, and it is able to make a difference because the neural pathways along which it travels and is continually transformed are themselves provided with energy.")。ただし今回見つけた記事ではこの表現は誤用されていると議論している。ついでに昔ブログに書いた「グレゴリー・ベイトソン(Gregory Bateson)の「精神と自然」まとめ」も参照。
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- / 投稿日: 2016年11月21日
- / カテゴリー: [トノーニの意識の統合情報理論]
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