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■ デビット・ボームの「全体性と内臓秩序」とかぴらぴら読んでます

デビット・ボームの「全体性と内臓秩序」をぴらぴら読んでる。「実在を過程として理解するという考え方は古くからのものであり、少なくとも、万物は流れるといったヘラクレイトスにまで遡ることができる。」いやそりゃそうだよなあ。この考え方は、ホワイトヘッドのプロセス哲学、中観仏教哲学での縁起と空の概念、面々と続いている「オルタナティブ」な思想なのであった。

エナクティブな意識、「行動としての意識」という考え方に肩入れする私は、まあひとことで言ってしまえば「遅れてきた80年代ニューサイエンス野郎」であると認めざるをえない(「禅とオートバイメンテナンス技術」とか)。

けれども、そんな「80年代ニューサイエンス」との区別をきっちりつけるために、実験科学的(神経生理学的)でありつづけようとしてきたのだった。と簡単に私の20年を総括してしまったがもちろんそんなに簡単なわけでもない。

この期間に計算理論的なものにかなり親しんできた。デビット・マーに対しては半可通でありつつも改革論者であろうとしてきた。(以前の記事「マーの三階層理論をベイトソン的に捉え直す」ではマーの表象主義はじつのところ正当にも表象とその操作(プロセス)の組みで捉えられていることを強調した。)

そんなこんなで、計算理論的表象主義的 vs. 力学系的非表象主義的、みたいな対立は使っているツールの違いとかだけではないことを思い出した。つまり、いいとこ取りでやっていけるのかどうかまたわからなくなってきた。

ともあれ、デビット・ボームの「全体性と内臓秩序」を開いていたら、1991年のあの空気が一挙に流れてきて(大学生の夏休み、自転車で暑い中を図書館まで行って、フリチョフ・カプラとか読んでた俺)、あのときからいったい私はちょっとは進歩したのだろうかと考えてしまう。

もちろん進歩はしている。あの頃自分で考えていたつもりのことを言語化するのにはどれだけ手を動かして書いてみなければいけないか少しは分かった。また、どんな概念でも(たとえばHHニューロン)、トイモデルでいいからいったん手を動かしてplayして身につけてゆくしかない。

自転車に乗れるようになるためには自転車に乗ってみるしかない。けっきょくそれに尽きているようにも思える。って説教くせえなあw

んで、なんでこんなことしているかっていうと、今度自然科学研究機構での企画で物理学者と分岐や生成について議論をするという機会が与えられたので、「意識の生成」みたいな話をするためにちょっと自分に入れ知恵しておこうというわけなのだった。

でもまっとうな物理学者の前でデビット・ボーム読んだとか言ったらこのオカルト野郎、みたいに思われるリスクのほうが高いかもしれないことに気づいたり。OMG。

ということで、第2回NINS Colloquium 「自然科学の将来像」 というのに行ってきます。

ホワイトヘッド->ボーム、プリゴジン、とかド直球過ぎて気恥ずかしいのだがそうも言ってられず、自分で何かできることはないかと考える。

whiteheadのprehensionって概念とか超重要そう。心の哲学側から現代的に捉え直されていないか調べてみる。これとか:Whitehead's panpsychism as the subjectivity of prehension


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