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■ 勝っている人たちは当然、私だって少しは。

「医療過誤訴訟を生き残る」 というエントリで"How to Survive a Medical Malpractice Lawsuit: The Physician’s Roadmap for Success"という本が紹介されていて、そこではたとえばこんなかんじでプロテクティブにやることを勧めている:

公判前の質問を受ける場面においては、病院の内部でしか通用しないような略語を、むしろ多用するように心がけたほうがいい。原告側弁護士は、しばしば言葉の説明を求めるかもしれないが、略語を多用することで、相手に伝わる情報を、より少なく保つことができる

裁判ってこうやっていかに失点を防ぐかみたいなことをガチガチにやることなんだなと思うと、そういうのが日常の人もいるのだろうということに思い当たって、そら恐ろしくなった。(なんて甘ちゃんなことを言ってる、と思うかい?)

ちなみに学術論文が無味乾燥なのも同じ理由から来ている。学術論文ってのは揚げ足取られないように細かい表現のレベルを調整してぎちぎちに書いてあるものだからだ。(以前、法律の文章のようだ、と書こうと思ったことがあったけど、じつのところ法律の文章がどんなもんだかわたしはわかってない。)

たとえば、ある機能のneural correlateを見つけたという論文を書くとしよう。この論文の結論として、そのニューロンが機能に関わっているとは絶対書けない。機能に因果的に関わっているかどうかは不明だし、同じニューロン活動は脳の別のところにもあるかもしれない。損傷実験やムシモル注入実験とかの関連する報告を踏まえたうえで、機能との関連はhighly likelyだ、とか言うのにとどめることになる。

Neural correlateの研究というのは結局、脳の中にこれこれこういう情報があるのを見つけましたよ、ということであって、本質的にはデコーディングと同一なんだと思う。だからこそ最近の気の利いた論文ではneural correlateの代わりにデコーディングの文脈でものを言ったりする。たとえばfMRIでワーキングメモリをV1からデコーディングとか。わたしはダッサいながらも戦略的にneural correlateについて論文を書いていこうと思っていたけれど、のろのろしているうちにあっという間に古くさくなってしまった。

脱線するけど、かといって、刺激実験をしたからって因果的に機能に関わる、みたいな結論にするのも全然足りない。刺激の下流が関わっている可能性もあるから。損傷とかにしてもそうだけど、そういうすごく単線的なロジックが求められているので嫌いだ。これは認知科学的な機能モジュールの発想を引きずっていて、コネクショニズムとかを通り過ぎた後の発想ではない。たとえば、ある部位を抑制したからってその下流が押さえられるとは限らない。

だから私としては、もっと計算論的モデルをいれて、あるところを刺激したらほかのところがどうなるかと動態を予測するという方向へ行くべきだと思うのだ。そっちの方向へ行けば、かえって予測の精度は下がるだろう。それでも良いと思う。そういう試みが並行して走れば、イノベーションはどこかで起こるだろう。

私が「イノベーションのジレンマ」で好きなのは、3.5インチHDが現れたときとか(さらにいまだったらSSDでも)、破壊的イノベーションが起こったときは、新興が手がけていて、スペックとしては先行するものと比べたら低かったということだ。しかし最終的にはその機能を上げて、先行者を追い越した。(これを胸に置くことは良いことだけれども、だからといって逆は真なりとは言えない。当然。だからこそ、そういう試みを並行して走らせればいいのだ。)

いまmulti-unitやLFPやECoGを使っている人は、single-unitだったらできたような個々のニューロンに対する課題条件の最適化を捨てて、その代わりに得られるものを求めているんだと思うし、私も次のプロジェクトは全面的にそちらに向かっている。

だからこそ、わたしが目を向けているのは、そういった新しい実験パラダイムでのデータのサンプル法(overtrainingと繰り返し前提の行動課題のデザインに留まらない)についてだ。つまり、大澤先生がやってるような刺激空間をいかにして網羅的かつ効率的にマップしてゆくかという問題だ。

しかもそれを知覚だけでなくて、知覚と行動の連関、つまり環境-個体のinteractionのレベルでマップするにはどうすればよいのかと考えている。はじめから網羅的にマップしなくても良いけど、それでも操作的脳科学になるようにぐるっとひとまわりできるようにしておく必要はあるだろう。

ぐるっと話を戻すと、それでも学術論文を無味乾燥でなくエキサイティングなものにすることは可能だし、読んでてこれは面白いと思ったことはいくらだってある。だからこそ論文コメントブログなんてやってるわけで。うまい人はホントにうまく書く。私もそうありたいと思う。自分の論文が毎度日本人的なこまっかな議論に落ち込んでいくのをなんとかしたいと思ってる。ぶっといメインのラインをいかに印象的に書くか(スティーブ・ジョブスの演説みたいにね)、あれこれひっくり返して考える。

それに揚げ足取られないようにきっちり書いてない論文ってのは、もう安全地帯にいる大御所か、逆に泡沫方補の演説みたいな論文にしかならない。揚げ足取られないようにきっちり書いている論文は、高校野球の試合で選手がきびきびしているのと同じようなさっぱり感というか、基本ができているかんじがある。ここをないがしろにして良いなんてわたしはぜったい言わない。

そもそも両者(エキサイティングであること/揚げ足を取られないこと)は両立する。みんなが苦労しているのは、NatureやScienceに載るほどエキサイティングな主張でありながら、揚げ足を取られないような完璧な論理構成を作る点にあるはずだ。

さらに話を戻すと、医療訴訟のように失言が命取りな世界で戦いを日常にしている人がいて、そういうのにわたしはビビったりするけれども、じつのところ研究の世界も同じなわけで、まさに戦いを日常とした世界にいて、いかに相手を黙らせるか論争的でありつづけている。

勝っている人たちは当然、私だって少しは。


追記。Twitterではこうやって話を閉じたけれど、わたしはいま自分がそういう戦いの世界にいるというイメージは持ってなくて、いかに想像力をぶっ飛ばしていけるかということに重きを置いている。その世界では、戦いの世界のように萎縮していたら、想像を広げることはできないと思うんだ。わたしが何度も繰り返して表明してきた「恫喝的コミュニケーションへの反発」とはそういった世界観の部分で繋がっている。

今日のエントリでは、A-B-C-B'-A'という変な構造を採用して、いつもどおり直線的なロジックを回避した。当然、A-A', B-B', Cと話を分けるべきだ。そうしなかったのは、A-B-Cの関連性にインスピレーションをかき立てられたからで、そういう意味では『脱線だけど』とか書いたけど、本人は全然脱線だと思ってない。それが論文で書くような直線的なロジックとの違いのはずで、そういうことが伝わると良いのだけれど。(<-今日いちばん言いたかったこと。)

「刺激空間をいかにして網羅的かつ効率的にマップしてゆくかという問題」についてはもう少し書いておきたい。と思ったがすでにエントリが長い。またにします。(<-こいつゼッテー続ける気がない)


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