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■ Noë の知覚理論2

060210のエントリのつづきをarational agentさんが送ってくださいました。どうもありがとうございます。(じつは一週間まえにいただいていたのですが、私が寝込んでいたのでお待たせしておりました。) さっそく以下に記事を掲載します。というわけで今日はarational agentさんによるゲストブログです。ここから:


Noë の知覚理論2

pooneilさん、cogniさん、先日の記事にコメント下さって、どうもありがとうございます。 pooneilさんが盲視についてのノエの議論に触れていらっしゃいますので、私もノエのBBS論文の該当箇所を読み直しました。で、機能主義と現象的意識、スーパー盲視との関係については、話として大掛かりになるのでちょっと脇に置いておくとして(鈴木貴之「クオリアと意識のハードプロブレム」『シリーズ心の哲学1:人間編』勁草書房がこの問題を詳しく論じています)、ブロックのいうP意識(現象的意識)とA意識(アクセス意識)の区別と行動理論との論理的関係についてだけ、押さえておきたいと思います。

ブロックによると、現象的意識とは、主観的意識体験のことで、アクセス意識とは、思考や行動制御、言明による報告等に利用されている意識状態のこととされています。ブロックが1995年にBBSに発表した論文、"On a Confusion about a Function of Consciousness"の趣旨は、現象的意識という概念とアクセス意識という概念を分けて考えるようにと、脳科学者や心理学者、哲学者に警告することでした。そこで、ブロックは現象的意識とアクセス意識が明確に分離する事例(つまり、一方は保持するものの、他方はもたない事例)を指摘しようとします。で、想像上のスーパー盲視は、知覚者がアクセス意識は保持しているものの現象的意識をもたない場合の例で、何かに気を取られていて騒音が耳に入っているのに気がつかない場合などが、知覚者が現象的意識はもつているのにアクセス意識をもたない事例として挙げられています。

さて、話題をノエの行動理論に移しましょう。ノエの行動理論によりますと、ブロック的な区別ではアクセス意識に分類されると思われる知覚対象の検索的行為を知覚者が行っていることが、とりもなおさず、知覚者が対象を現象的意識体験において見ていることに他ならないわけです。したがって、行動理論が正しい場合には、ブロック流の区別は否定されます。ノエの理論によれば、知覚者がアクセス意識をもっている場合には、現象的意識をもっているし、アクセス意識を持たない場合には現象的意識ももたないとされるはずです。スーパー盲視の人は(アクセス意識を持っている以上)現象的意識をもっているだろうし、ボーッとして騒音に気がつかない人は(アクセス意識をもっていないのだから)現象的に騒音を聞いてはいないと言われることになります。

では、反対に、ブロック流の区別を否定した場合には、行動理論のような反表象主義的な知覚理論を採用せざるをえなくなるのか?これは必ずしもそうではないですね。比喩的な言い方をすると、ノエは、アクセス意識に現象的意識を埋没させるような仕方で両者の区別を解体するわけですが、現象的意識にアクセス意識を併合するような仕方で両者の区別を否定する道筋もあるからです。例えば、次の論文:

では、「現象的意識は、脳内の明示的表象の担い手と同一だ」とする理論が展開されています。より詳しくは、「すべての現象的意識は表象的であり、また、脳内にコード化されているすべての情報は意識的に体験される」(128頁)ということです。この前半はいわゆる「意識の表象理論」で、何人かの有力哲学者が支持してますが、後半は結構過激なのではないでしょうか。脳内での情報処理過程の多くは内観的にアクセス可能ではないというのが現在では常識的な見方でしょうから。この見解は、意識の担い手理論—つまり、意識体験が志向内容の担い手に他ならないとする理論—とよばれており、あからさまに表象主義的で、意識の行動理論とは全然毛並みがことなります。そうではあったとしても、オピーたちは、ノエと同様、盲視を、知覚者が現象的意識はもたないけれど対象の心的表象は形成している事例として解釈することに批判的です(130頁以下)。以上のように、ブロック流の意識の区別を受け入れないとしても、知覚に対して表象主義的なアプローチをとることもできれば、反表主義的なアプルーチをとることもできるわけです。

cogniさんは、ノエとトンプソンによるNCCリサーチ・プログラム批判論文(2004)をお読みになって、今一つピンとこなかったみたいですね。私には、ノエには非常に共感する部分と全く納得できない部分の両方があって、反表象主義やNCCの否定にはあまり馴染めません。で、私のこの論文に対する感想は、私のボス、トーマスのかなり批判的なコメント( Journal of Consciousness Studies 11: 67-72, 2004)の内容とだいたい同じです。

でも、この論文には(私のような者から見ても)結構いいなと思える点はあって、チャルマーズの NCC 論文:

の最終節(Should We Expect an NCC?)に登場するThe Content Mirror Argumentに対する批判的吟味をおこなっている箇所(ノエ・トンプソン論文19、20頁)は、短いですが、説得的に感じられました。チャルマーズのような仕方でNCCの存在可能性を擁護することにはやや無理があるということがわかっただけで、私としては、かなり満足でした。(原典にあたらなければ判読できないようなコメントの書き方をしてすいません。NCCについての議論は結構錯綜していますのであまり深入りしたくないもので。)

先に進みます。行動理論に対する批判を取り上げてみたいと思います。一つ目は、change blindness(CB)の扱いについてで、pooneilさんが2月7日のエントリーで取り上げていらっしゃいます次の論文で展開されています。

この論文は、ノエの行動理論を論証する手続きに異議を申し立てる内容を含んでいます。さて、ノエの論証を振り返ってみましょう。CBは、知覚についての正統的見方—つまり脳内に外界の詳細なパノラマ的表象が存在し、それが豊かな知覚体験の基盤となっているという見方—とは相容れないということがまず確認されます。ノエは選択肢として、正統的見方と行動理論の二つのみを考慮しています。そこで、CBにより正統的見方が否定されるので、行動理論が正しいのではないかと推定されます。最後に行動理論がCBを適切に説明できることが示され、行動理論の正しさが証明されるというわけです。

従って、ノエの論証の誤り、ないし不足を証明するためには、以下の三つのうちいずれかを示せばよいということになります。

  1. CBと正統的見方は両立可能
  2. CBと行動理論は両立不可能
  3. 正統的見方とも、行動理論とも異なるが、CBと両立する知覚理論の存在

上記のノエ批判論文は、このうちの1の可能性を検討しています。報告者の自作でかつ架空の例ですが、例えば、被験者に3枚のスライドを連続して見せたとしましょう。一枚目はおおきな神社が背景に見える都市風景の写真で、二枚目で画面いっぱいに閃光が走ったように見えるようにし、三枚目は神社がお寺に置き換わっている他は一枚目と変化がない都市風景写真です。被験者の多くが1と3の変化に気がつかないとします(CB)。脳内に詳細な表象が存在するという仮定の下でも、以下の四つの事態が生じれば、CBが起こると論文の著者たちは言います。

  1. 神社込みの風景の詳細な表象が形成されるのだが、3枚目のスライドが提示されるまでの間に消滅してしまう。
  2. 神社込みの風景の詳細な表象が形成されるのだが、その表象は、寺込みの風景の表象との照合を行うシステム(変化検出メカニズム)には送られない。
  3. 神社込みの風景の詳細な表象が形成されるのだが、その表象の書式が変化検出メカニズムに利用可能なものではない。
  4. 神社込みの風景の詳細な表象が形成され、適切な書式で表現されたものが変化検出メカニズムに送られるのだが、何らかの理由でメカニズムが作動しない。

現在までのCB研究では、これらの可能性を排除していない。従って、ノエの論証が正しいと決まったわけではない(反論終わり)。なるほど。すっかり納得してしまいました。ところで、私にとって、この論文で最も印象的だったのはCBに関するノエの論証に対する反論ではなく、著者による感情的ともいえるノエのBBS論文に対する批判です(18頁左コラム第2段落)。自然科学の雑誌論文でこういう批判がおこなわれるのは珍しいのではないでしょうか。 二つ目の反論は行動理論とミルナー、グッデイルらによるTVS理論との整合性の観点からのものです。行動理論は、dorsal経路での情報処理については考慮しているけど、ventral経路の情報処理は無視しているのではないかという疑念です。以下に論争状況についての簡潔な記述があります。

この論文に述べられていることの中で、行動理論の枠組み内で長期計画に従った行為の連鎖のメカニズムを明らかにするためには、心的表象ならざる実践的知識と行動計画という心的表象とのインターアクションを適切に説明しなければならないというのは結構重要な指摘ではないかと思います。

ノエは、2004年に Action in Perception という著書を出版しています。この本を見ると、BBS論文以降の論争を咀嚼して、ノエが自身の見解をかなり大きく軌道修正していることがわかります。まず非常に目立つものとしてCBの取り扱いがあります。著書の52頁に見られるように、ノエは、CBの現象が詳細な心的表象の存在と両立可能であることを積極的に認めるようになっています。このことはBBS論文での論証を放棄したことを示していると思います。次に、TVS理論との整合性についてなのですが、ノエは、行動理論とTVS理論との整合性にもはやこだわろうとはしなくなっていますね(19頁)。あと、 pooneilさんのご指摘の通りで、sensorimotor contingencies という用語の使用は控えて sensorimotor dependency と言うようになりました。これはトリウ゛ィアルな用語上の変化とみなすべきではないと思います。ノエは、知覚についての定義をかなり大幅に変更していて、用語の変化はこれを反映しているんだと思います。BBS論文では、見ることと知覚対象を実践的知識によって検索する行為とを同一視していたわけですが、著書では、これらが同一だとは言わなくなります。例えば次ぎのように述べています。

The basic claim of the enactive approach is that the perceiver’s ability to perceive is constituted (in part) by sensorimotor knowledge (i.e., by practical grasp of the way sensory stimulation varies as the perceiver moves) (Noë 2004: 12).

見ることは知覚者の検索行為に依拠するのだということですね。これを、次のように解釈します。

  1. 「知覚者が何かを見ているときにはいつでも、その対象の検索行為を行っている」は正。
  2. 「知覚対象の検索行為を行っているときにはいつでも、その対象を見ている」は否。

つまり、対象の検索行為をおこなっているだけでは、対象を現象的に見たことにはならないわけです。では必要なのは何か?これがちょっとまだよくわかりません。ノエは、1については懇切丁寧に説明してくれるのですが、2については多くを語らないので。常識的には、「対象を表象すること」が知覚には必要だと考えられるのだろうと思われます。

また、行動理論にとっての標的なのですが、もはやマッハ的表象主義は敵役としてのすごみを失っています。むしろ、古典的認知科学(フォーダーの1983年の本『心のモジュール形式』あたり)に見られた認知システムを入力側と出力側に分断する見方(input-output picture)、哲学ではヒューム主義と呼ばれるものが批判対象になっています。pooneilさんが2月16日のエントリーでとりあげていらっしゃいます批評論文で、批評者のCreem-Regehrはノエ自身が導入した、perception for action と perception by action の区別をとりあげています。これらのうち、前者が古典的知覚理論で、後者がヒューム主義を否定するノエの立場を特徴づけるものです。この路線変更には、ノエも認めているように、Susan Hurleyの1998年の著作Consciousness in Action、特にその最終章の影響が強いように思われます。この章は論文として発表されています。

この論文のなかでハーリーは、行動主義やギブソン的生態心理学を好意的に扱いながらも表象主義的観点から批判していたはずです。そのハーリーなのですが、dynamic sensorimotor approachをノエと共有していると最近言っています。それが正しいとするなら、ノエは何らかの表象主義を受け入れる用意があるのではないかと思われます。

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# arational agent

お久しぶりです。今日からUTCPのPDをやっています。なんと偶然にも、Noeを受け入れる側に所属することになってしまいまして、なんともはや驚いています。で、Noe来日情報をキャッチしましたので書き込みです。5月27日に来日して、6月12日まで日本にいるみたいです。セミナーを行うのは、水曜日と金曜日になりそうだと聞いています。また詳しい情報を入手しましたら、お知らせします。

# pooneil

どうもお久しぶりです。この話題、放置中ですみません。
Nöeのセミナーの件、ちょうどおとといサイトを見たら東大に来るのが5月から6月に変わってたので、まだみたいだな、と思ってたところです。なんとか参加したいと考えております。
んで、UTCP、おお、たしかにお名前がありますね。無事帰ってこられたということですね。おめでとうございます。

# Arational Agent

Alva Noeの連続セミナーの詳しい予定が明らかになったので、ご報告します。(UTCP事務局に確認を取ったところ、もう宣伝してもよいということでした。)
5月31日(水)セミナー(1) 14:40 - 16:10
(東京大学教養学部18号館4Fコラボレーションルーム1)
6月2日(金)セミナー(2) 14:40 - 16:10
       セミナー(3) 16:20 - 17:50
(18号館4Fコラボレーションルーム3)
6月7日(水)セミナー(4) 14:40 - 16:10
(18号館4Fコラボレーションルーム1)
6月9日(金)セミナー(5) 14:40 - 16:10
       セミナー(6) 16:20 - 17:50
(18号館4Fコラボレーションルーム1)
セミナーの題目についてはまだNoeの側から連絡が来ていないということです。6月2日だけ、開催場所が他の日と違うことにご注意ください。pooneilさんのご参加、期待しております。

# pooneil

どうもありがとうございます。
6/7,9のほうはちょうど研究会とぶつかっているので(自分の仕事の発表をします)残念ながら参加できませんが、6/2は参加できます。初回5/31に参加できるかどうか、検討してみます。さて、"action in perception"を読まなくては。
Windowの機種依存文字が含まれていたので(丸1とか)、そこだけコメントをいじりましたので。

# Arational Agent

ご訂正ありがとうございました。お手数かけてすいません。お会いできることを楽しみにしております。

# Arational Agent

Noe連続セミナーの題目の詳細がUTCP事務局から送られてきました。最近、私は神経倫理学日記を書き始めたのですが、そこの5月19日のエントリーに題目を掲載しました。ご確認ください。


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